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泥まみれの英雄たち  作者: 時雨
第一部 神童と喪失/第一章 泥まみれの英雄と魔術の芽生え
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第3話 父の野心、冷える兄の部屋

 六歳になった僕に、父さまは新しい勉強部屋を用意してくれた。

 東棟の、午前中によく日が当たる部屋だ。長いこと物置になっていた場所をマルタたちが二日がかりで磨き、石壁の隙間に獣脂と麻くずを詰めて隙間風を塞いでくれた。大きな机と本棚のほかに僕の寝台も運び込まれ、これからは寝起きもこの部屋ですることになった。二つの部屋を別々に暖めるより薪を節約できるからだという。


「ここで毎日勉強するの?」

「ああ。魔術の教師も決まった」

「兄さんも来ていい?」


 父さまは書類から顔を上げた。


「レオンハルトには剣の稽古がある。お前は魔術に専念しなさい。二人にはそれぞれ役目があるんだ」


 それ以上聞いても、父さまの返事は変わらなかった。

 あとで兄さんに部屋を見せると、僕より先に傷だらけの机の引き出しを開けて覗き込んだ。


「すごいな。紙まである。最初に俺の名前でも書いとけよ」

「なんで?」

「記念だよ。お前が偉い魔術師になったとき、その紙を売るんだ」


 兄さんが大真面目な顔で言うので、僕は笑ってしまった。兄さんは笑いながら、野犬に噛まれた右腕の傷痕をさすった。寒い日にはまだ引きつるらしかった。


「先生が来たら俺にも教えてくれ。火の出し方とかさ」


 兄さんはそう言って僕の頭を軽く小突き、中庭の稽古へ戻っていった。


 ◇


 家庭教師が来た日は、冷たい雨が降っていた。

 ヴォルクと名乗った男は、煤けた灰色の外套を着て、顎に無精ひげを生やしていた。僕が想像していた、立派な帽子を被った宮廷魔術師とはずいぶん違う。


「アルヴィスだな。まず、手を見せろ」


 挨拶のあと、ヴォルクは僕の指先を一本ずつ確かめ、鞄から小さな油皿を出して机に置いた。少量の油に浸した芯へ火を移すと、橙色の炎が揺れた。


「身体の中には、マナを通す道がある。魔術回路――パスと呼ぶ。水路と同じで、溝が塞がれば水は届かんし、無理に流せば身体を傷める」


 先生は僕の小さな手をそっと机へ戻した。


「魔術は、身体の中の熱を無理やり外へ投げるものじゃない。自分の中を巡るマナと、外にあるものの状態を合わせる技術だ。まず呼吸を整えて、その炎を見ろ」


 窓の隙間風で揺れる炎を、僕はただ見つめた。

 肩が上がると先生が軽く叩いて力を抜かせ、息を止めていると「息を止めるな」と握りしめた手を開かせた。


「白百合を元気にしたときも、枯れ葉を焦がしたときも、何をしたか自分では説明できないんだろ。なら、まず自分の身体で何が起きるのかを覚えろ。先を急ぐのはそれからだ」


 何日か経った授業の終わり、見回りから戻った父さまが顔を出した。


「どうだ、ヴォルク。まだ火は使わせていないのか」

「魔術の素質はあります。ですが、最初に偶然できたことを繰り返せるようになるには基礎が要ります。焦らせないでいただきたい」


 父さまはしばらく黙り、机の上の教本と油皿に目を向けた。


「……必要なものがあれば言いなさい」


 父さまは僕の肩に手を置き、「先生の言うことをよく聞きなさい」と頷いた。


 ◇


 けれど、その日から屋敷では少しずつ、変わったことが起こった。

 まず、東棟の僕の部屋には、朝から夜まで暖炉に薪がくべられるようになった。寒いと授業で指がかじかむし、夜に身体を冷やしてもいけないからだとマルタは言った。


 さらに夕食の席でも、僕の皿にだけ卵や塩漬けの干し肉が添えられる日が増えた。兄さんの前にあるのは、固い黒パンと薄いカブのスープだけだった。


「父さま、兄さんも剣の稽古をしてるよ。僕の方が多い」


 父さまはパンをちぎる手を止めた。


「アルヴィスには魔術の訓練で体力が要る。レオンハルトには必要な分を与えている」

「でも……」

「アルヴィス」


 静かに名前を呼ばれただけだったが、僕はそれ以上言えなくなった。

 テーブルの下で、兄さんが僕の足を軽く蹴った。


「いいから食えって」


 兄さんは小声で言った。僕が干し肉を半分に切って兄さんの皿へ移そうとすると、兄さんは少し迷ったあと、小さい方の一切れだけ受け取った。


「ありがとな」


 その声がいつも通りだったので、僕は少しだけ安心した。


 ◇


 冬が近づいたある夜、眠る前に水を飲もうと廊下へ出た。

 東棟の僕の部屋は夜でも暖かいのに、西側の階段へ向かう途中、少し開いていた兄さんの部屋の扉から冷たい空気が流れてきた。


「兄さん?」


 覗くと、兄さんは消えた暖炉の前で寝台の端に座っていた。机の上には木剣と、裂けた手袋が置かれている。


「まだ起きてたの? 寒くない?」

「平気だよ」


 兄さんはいつもの顔で笑おうとしたけれど、唇が青白い。


「薪、持ってこようか」

「明日の朝には入るって。……じゃあ、ちょっとだけ座ってけ。お前、暖かい部屋にいたんだろ」


 掛け布の中で兄さんの手に触れると、指先が氷みたいに冷たかった。前は兄さんが僕の手を引いてくれたのに、今は僕が握っても、冷えた指はすぐには温まらない。


「明日、先生に聞いてみる。部屋を暖かくする魔術」


 兄さんは一瞬だけ息を止め、それから吹き出した。


「お前、まだ火を見てる練習ばっかりだろ」

「そのうちできるようになるもん」

「じゃあ、そのときは頼むよ」


 兄さんは僕の頭を撫でた。

 いつかもっと魔術を覚えたら、この屋敷のどの部屋も暖かくして、兄さんの右腕の傷だって治せるようになる。そう考えると嬉しくなった。

 けれど、寝台から降りるとき、兄さんが僕の手を離すのが少し早かったことだけは、なぜか胸に引っかかっていた。

お読みいただきありがとうございます!

魔術の才を見出された弟と、冷え込む部屋で木剣を握る兄。少しずつ屋敷の中の空気が変わり始めます。

次話もぜひ続けてお読みください!

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