第2話 芽生えの鉢植えと、水路番の爺さん
兄さんが野犬に噛まれてから、半年が過ぎた。
短い夏が終わり、ランカスターにはもう冷たい秋の風が吹いている。
兄さんの右腕には、赤く盛り上がった傷跡が残っていた。腕を曲げると引っ張られるらしく、ときどき顔をしかめる。それでも兄さんは毎朝の木剣をやめなかった。
「今日は二十回」
「昨日は十八回だったよ」
「知ってる。だから二十回」
中庭で兄さんが得意そうに木剣を振る。僕も短い木剣を借りて真似をするけれど、三回目で手首が痛くなり、四回目は剣先が土を叩いてしまった。
「お前、腕だけで振るからだよ。腰も使うんだ」
見本を見せようとした兄さんが、勢いをつけすぎて尻餅をつく。二人で笑っていると、洗濯籠を抱えたマルタに「泥を落としてから屋敷へ入りなさいよ」と叱られた。
あの日以来、一人で裏の石垣へ行くことはなくなったけれど、何かして兄さんや家族を喜ばせたい気持ちはずっと残っていた。
◇
東棟の回廊には、母さまが帝都から嫁ぐときに持ってきた白百合の鉢植えがある。
けれど今年は春先の霜が長引いて鉢の土が何度も凍り、根を傷めたせいで夏になっても花をつけなかった。さらに秋口の冷たい風に当たって、今は茎まで黄色く萎れ、葉の先が茶色く縮れている。
「これ、もう咲かないの?」
鉢の脇にしゃがんでいた母さまに聞くと、母さまは寂しそうに葉先を撫でた。
「分からないわ。根が生きていれば、また芽を出すかもしれないけれど」
「帝都のお庭にあった花なの?」
「ええ。小さいころから見ていた花なのよ」
その日の午後、僕は一人で回廊を通りかかった。
窓から差す光の中に鉢が置かれている。水をやりすぎても根が傷むと聞いていたので、僕はしゃがみ込んで、折れそうな茎の根元を両手でそっと包んだ。
「元気になってよ」
そのとき、胸の内側がふっと温かくなった。
日が当たったのかと思ったが違う。肋骨の奥で何かがゆっくり脈打ち、息を吐くたび、その熱が肩から腕を下りて手のひらへ集まってくる。
冷たい素焼きの鉢と乾いた土へ、自分の熱がじわりと染み込んでいくような感覚があった。
「……え?」
手を離して覗き込むと、茎の付け根に小さな水滴が一つ浮かんでいた。しばらく待ったけれど、ほかには何も起こらない。気のせいだったのかもしれないと思い、僕はそのまま食堂へ向かった。
◇
翌朝、回廊へ寄った僕は足を止めた。
黄色く萎れていた茎がまっすぐ立ち、根元に小さな緑色の芽が顔を出していたのだ。
「母さま! 百合、芽が出てる!」
食堂へ向かう途中で母さまを見つけて手を引いた。回廊へ来た母さまは、鉢を見るなり口元に手を当てた。
「まあ……」
「昨日、僕が触ったら、胸の奥から手の中があったかくなったんだ」
母さまが不思議そうに僕の手を取ったとき、回廊の向こうから重たい靴音がした。
「おや。こりゃまた、ずいぶん景気よく持ち直しましたな」
泥のついた長靴を履いた、水路番のゴードン爺さんだった。屋敷の古井戸や水路を管理している元工兵で、鉢の土と新しい芽を交互に覗き込む。
「奥様、水を替えたり土を足したりなさいましたか」
「いいえ、何も」
「ふむ……坊ちゃんは、何かしましたかな」
「触っただけ。手を当てて息を吐いたら、胸が温かくなったんだ」
爺さんは眉を動かし、しばらく僕の手を見つめた。
「奥様。ちと坊ちゃんに、簡単なことを試していただいても?」
母さまが頷くと、爺さんは石畳に落ちていた枯れ葉を一枚拾い、水を張った受け皿の縁に置いた。
「坊ちゃん、昨日の温もりを思い出せますか。胸のあたりから腕へ熱を通すようにして、この葉っぱにそっと触れてみてくだされ」
僕は頷き、皿の上の枯れ葉へ指先を触れさせた。
昨日のように、ゆっくり息を吐く。
すると、指先が触れている葉の端から、すっと細い煙が立った。一拍遅れて、小さな赤い火種が生まれる。
「わっ!」
驚いて身を引くと、爺さんが素早く皿を押さえた。焦げた匂いが鼻をくすぐる。
「僕がやったの?」
母さまは息を呑み、ゴードン爺さんは焦げた葉を指で摘まんだまま固まっていた。
「……型も掛け声も教わらず、一度で通しましたか」
「これ、なあに?」
「魔術の、いちばん初めのところです。わしら工兵が現場で火種を作るときは、呼吸の型と合図の言葉を添えてようやく熱を通す。それを触れただけで……」
爺さんは険しい顔で僕の手首を持ち、脈や痛みがないかを確かめてから、ほっと息を吐いた。
「もう一回やっていい?」
「今日はそこまで。身体の中の道をまだ知らんでしょう。小さいうちに無理をすると身を傷めます」
「じゃあ、これで兄さんの腕の傷も治せる?」
思わず聞くと、爺さんは首を横に振った。
「火を通すのと傷を癒やすのは別物です。勝手に試すのだけはいけませんよ。……ですが、ちゃんと習えば、できることは増えるかもしれませんな」
母さまは元気になった白百合を見つめ、それから僕の頭に手を置いて柔らかく笑った。
「ありがとう、アルヴィス」
◇
その日の昼前、僕と母さまはゴードン爺さんと一緒に父さまの執務室へ呼ばれた。机には水路の図面と帳簿が何冊も積まれている。
「話は聞いた。枯れ葉に火をつけたそうだな」
すり切れた軍服姿の父さまが、椅子から僕を見た。
「偶然ということはないのか、ゴードン」
「偶然とは思えません。わしが手本を見せる前に、息を整えて指を触れさせただけで周囲のマナを応じさせました。ですが、我流で放置すれば坊ちゃんの身体を壊します。まずは確かな教師に診せるべきかと」
父さまは腕を組み、机の上の帳簿に目を落とした。
「教師を呼ぶ金など、どこにある」
「エドガー。先にこの子の身体を診てもらいましょう」
母さまが静かに言うと、父さまは答えず、もう一度僕を見た。いたずらを叱るときとは違う、初めて見る目だった。
「アルヴィス。今日はもう魔術を使うな。ゴードンの言うことを聞きなさい」
「はい」
「……よくやった」
最後の一言は、小さかった。
部屋を出ると、廊下の向こうから、こつ、こつ、と木剣の音が聞こえてきた。兄さんはまだ稽古をしているのだろう。
僕は早くこの話をしたくて、母さまの手を引いた。枯れ葉に火が灯ったことも、白百合が元気になったことも、一番に兄さんへ知らせたかった。
お読みいただきありがとうございます!
アルヴィスの小さな魔術の芽生えと、水路番のゴードン爺さんとの一幕でした。
次回、家庭教師のヴォルクがやって来ます。引き続きお楽しみいただければ幸いです!




