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泥まみれの英雄たち  作者: 時雨
第二部 凡人の再起/第四章 西谷補給所と石門砦への道
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第36話 初めての軍靴と百二十袋の麦

 春の朝、僕はランカスターの屋敷を出た。

 門の前には小さな荷車が一台待っている。荷物といっても、着替え、ヴォルクにもらった帳面、地図を入れた筒くらいだった。


「忘れ物はない?」


 母さまが僕の襟を直す。いつもと同じ仕草なのに、今日は指先が少し震えていた。


「うん。手紙、書くから」

「無理をしないでね」


 僕は頷いた。

 父さまは荷車の横に立ち、行き先のことをもう一度話した。


「国境守備隊の補給所だ。お前は軍人ではなく、見習いの軍属として働く。命令を聞くこと。分からないことは確認すること」

「分かりました」

「家の名前で仕事をしようとするな」


 少し厳しい声だった。

 僕は父さまの顔を見た。


「うん。僕にも、それは嫌だ」


 父さまは何か言いかけ、結局「気をつけて行け」とだけ答えた。

 屋敷が見えなくなってから、僕は荷車の上で帳面を開いた。

 最後の頁には、北の見張り台へ荷を送り終えた記録がある。

 その下へ、新しい文字を書きかけた。


『今日から――』


 何を始めるのか、まだ分からなかった。

 僕はペンをしまった。

 西谷補給所は、僕が想像していた軍の建物とは違っていた。


 高い城壁も、旗を掲げた塔もない。石造りの倉庫が三棟と、雨よけのついた荷捌き場。広い土の庭には、荷馬車の車輪の跡が重なっていた。

 門番が父さまの紹介状を確かめ、奥へ案内した。

 倉庫の前で、大きな声が響く。


「空袋を積むな! まだ濡れてるぞ!」


 声の主は、短く刈った髪に白髪の混じる男だった。

 紹介状を渡すと、男は片手で受け取り、ちらりと読んだ。


「補給長のオルドだ。十五歳か」

「はい。アルヴィス・ランカスターです」

「名前は聞いてる」


 僕は少し身構えた。


「魔術のことなら、もう……」

「それは俺の仕事じゃない」


 オルドは紹介状を畳み、僕へ返した。


「念のため言っておく。ここは貴族の子の見学場所じゃない。続けられるかどうかは、仕事を見て決める」


 僕は頷いた。


「はい。そうしてほしいです」


 オルドは一度だけ僕の顔を見直した。


「袋は持てるか」

「持てます」

「数は数えられるか」

「はい」

「なら、まず働け」


 僕が案内されたのは、麦袋を積み直す場所だった。

 倉庫の入り口にいた少年が、僕へ麻縄を投げてよこす。


「新入り? 俺はテオ。こっち押さえて」


 僕が袋の端を持つと、想像以上の重さに腰が落ちた。

 テオは笑いかけ、すぐ真顔になった。


「指を下へ入れるな。落としたら潰れる」

「ごめん」

「謝るより、持つところ見て」


 僕は言われた通りに、縫い目のある端を握り直した。

 二人で持ち上げると、何とか荷車の上へ載せられた。


「一袋」


 テオが言う。


「一袋」


 僕も繰り返した。

 それを十回、二十回と続けるうちに、腕の内側が熱くなった。

 昼の鐘が鳴ったころ、僕は腰を伸ばすのもつらくなっていた。

 テオは平気な顔で縄をまとめている。


「毎日これやってるの?」

「今日は軽い方だよ。雨が降ったら、もっと面倒」

「どうして?」

「袋が濡れるし、荷車がぬかるみにはまる」


 テオは僕の靴を見た。


「その靴、明日には終わるな」


 屋敷から履いてきた革靴には、もう泥が入り込んでいた。

 夕方、補給長のところへ報告に行った。


「何袋運んだ」


 僕は答えようとしたが、喉が詰まった。

 最初の二十までは覚えている。そのあと、腕が痛くなってからは数えていなかった。


「……途中から、分かりません」


 オルドは机の上の帳面を指で叩いた。


「運んだものを忘れたら、運ばなかったのと区別できない。明日は荷を持つ前に、数え方を覚えろ」

「はい」


 叱られると思ったが、それだけだった。

 寝台は六つ並んだ小部屋にあった。

 靴を脱ぐと、踵の皮が少し剥けている。僕は帳面を開き、今度は最後まで書いた。


『一日目。麦袋を何袋運んだか、分からなくなった』


 それから思いついて、一行足した。


『明日は数える』


 隣の寝台でテオがいびきをかき始めた。

 僕は少し笑って、灯りを消した。


 ◇


 朝、書記のミラに呼ばれた。

 僕より少し年上の女性で、髪を短くまとめ、細い炭筆を耳に挟んでいる。


「今日は倉庫の受け入れを手伝って。運ぶ前に記録をつける練習」


 机には三枚の紙が並んでいた。

 昨日の荷車の記録、倉庫の在庫、今日の予定。

 僕は数字を見ると少し落ち着いた。屋敷でも帳面は毎日見ていたからだ。


「昨日、麦が百二十袋届いてるんだね」


 一袋二十五キロとして、帳面上は三トン。それでも石門砦で食べる人たちの、せいぜい二日分ほどだ。西谷へ届く麦は北部全軍の食糧ではなく、いくつもの集積所から分けられた一部だった。


「そう書いてある」


 ミラは紙の端を押さえた。


「じゃあ、倉庫に何袋あると思う?」

「元の数に百二十を足して、昨日出した分を引けば……」


 僕が答えると、ミラは首を振った。


「そう計算する。けど、それだけじゃ駄目」


 彼女は僕を倉庫へ連れていった。

 倉庫には袋が高く積まれ、床には古い木札が散らばっている。

 奥の列を指して、ミラが言った。


「ここを数えて」


 僕は端から数え始めた。

 四十二、四十三、四十四。

 数え終えると、帳面より三袋少なかった。


「盗まれた?」

「早く決めつけない」


 ミラは一袋の口を開き、麦の粒を指で確かめた。


「昨日の雨で破れた袋がある。中身を移したら、袋の数は変わるでしょう」

「あ……」

「それに、袋ごとに重さも同じじゃない。大事なのは、食べられる麦がどれだけあるか」


 僕は屋敷の倉庫で薪の太さを数え直した日のことを思い出した。

 あのとき分かったはずのことを、また忘れていた。

 僕らは袋を一つずつ見た。


 口を縫い直したものには印をつける。底が湿ったものは別の場所へ運ぶ。虫がついていないかも確かめた。

 昼前には手も服も粉だらけになった。


「全部量り直すの?」


 僕が聞くと、ミラは笑った。


「急ぐ荷からね。明日の配給分は先に確かめる」


 彼女は出荷予定の紙を指した。


「数字が合うまで兵を待たせたら、今度はそっちが困るから」


 僕は頷いた。

 帳面を正しくすることと、食糧を間に合わせること。その両方を考えないといけなかった。

 午後、テオが袋を運びに来た。


「まだやってるのか」

「三袋、数が合わなくて」

「昨日、俺たちで積み替えたやつだろ」


 テオがあっさり言う。


「一つ破れてたから、二袋へ分けたんだよ。空になった袋は外へ出した」

「それ、どこにも書いてない!」


 ミラが顔を上げた。

 テオは肩をすくめた。


「急げって言われたからさ」

「だからって書かなきゃ、明日の朝に誰かが探すのよ」


 二人は言い合いになった。

 僕は何も言えなかった。昨日、袋を積み直すときに僕も数を忘れていたからだ。

 しばらくして、ミラが大きく息を吐いた。


「明日から、袋を移したら木札を一枚置いて。私がまとめて記録する」

「木札なら俺でも書ける」


 テオが言う。


「字は要らない。移した袋の数だけ刻みを入れればいい」


 ミラは木札へ短い線を一本彫った。

 テオがそれを受け取り、裏返して眺めた。


「これなら邪魔にならないな」


 僕はそのやり取りを見ていた。

 解決したのは、計算が得意な人でも、力仕事が得意な人でもなかった。

 二人が話し合ったからだった。

 夕方、オルドへ報告した。


「足りない袋は見つかったか」

「袋の数え方が変わっていました。でも、麦の量はまだ全部確認できていません」

「なら、確認した分と、まだの分を分けて書け」


 僕は頷いた。

 オルドはそれだけ言って別の報告書を開いた。

 寝る前、今日の帳面へ記した。


『百二十袋という数字だけでは、百二十袋分の麦があるとは言えない』


 その下へ、小さく書き足す。


『テオに聞く。ミラにも聞く』


 明日の仕事が一つ増えた。

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