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泥まみれの英雄たち  作者: 時雨
第一部 神童と喪失/第三章 破滅の吹雪と凡人の歩み
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第31話 兄の出立

 兄さんが屋敷を離れると知ったのは、十一歳の冬だった。

 父さまは北の国境にある小さな砦へ、兄さんを送ると決めたらしい。


「剣術を続けるため?」


 母さまはしばらく迷ってから頷いた。


「そういうことになっているわ」


 そういうこと。変な言い方だと思った。

 出発の前夜、僕は兄さんの部屋へ行った。

 寝台の上には古い外套、木剣、何冊かの本。机には磨かれた鞘が置かれていた。


「本当に行くの?」

「ああ」

「いつ帰る?」

「まだ分からない」


 僕は戸口に立ったまま、床の木目を見た。兄さんは以前より背が伸びていた。兵舎での稽古が増えたせいか、手には新しいまめができている。


「僕が魔術を使えなくなってから、兄さんはあんまり話してくれなくなった」


 兄さんは黙っていた。


「僕といるの、つまらなくなった?」

「そんなことはない」


 答えはすぐだった。


「じゃあ、どうして?」


 兄さんは机の端を見つめた。


「今は、うまく答えられない」

「僕の方が子どもだから?」

「そうじゃない」

「だったら教えてよ」


 声が強くなった。兄さんはそれでも言い返さなかった。


「僕、帝都にも行けなくなったし、前みたいに一緒に練習もできない。なのに兄さんだけ遠くへ行くんだね」

「……ああ」


 兄さんは頷いた。それが余計に悔しかった。


「兄さんには、僕がいなくてもいいんだ」

「アルヴィス」


 名前を呼ばれたが、振り向けなかった。

 僕は部屋を出た。背中から呼び止める声はしなかった。



 翌朝、兄さんは門の前で馬に乗った。父さまは硬い顔で見送り、母さまはハンカチを握りしめていた。

 僕は窓の陰から見ていた。


 兄さんが一度だけ屋敷を振り返る。

 呼びかけようと思ったのに、言葉が出なかった。

 馬の足音が遠ざかっても、僕はしばらく窓から離れられなかった。

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