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泥まみれの英雄たち  作者: 時雨
第一部 神童と喪失/第三章 破滅の吹雪と凡人の歩み
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第30話 閉ざされた部屋

 十一歳になってから、僕はあまり庭へ出なくなった。

 窓の外では、兄さんが兵士たちと話している。

 以前なら、稽古が終わると僕に声を掛けてくれた。今は、こちらを見ることがあっても部屋へは来ない。


 僕も呼べなかった。

 あの夜から、どうしてか兄さんとは話しにくくなっていた。前と同じように声をかけてくれない理由も分からなかった。

 母さまは何度も散歩へ誘った。


「少し日を浴びた方がいいわ」

「あとで」

「アルヴィス」

「あとでって言った」


 強い声が出て、自分で驚いた。

 母さまは何も言わず、扉を閉めた。

 僕はすぐ謝りたかった。

 でも、身体が動かなかった。

 机にはヴォルクからもらった帳面があった。


 最初の頁に書いたのは、『今日は何もできなかった』という言葉だった。

 次の日も同じ。

 その次の日は、何も書かなかった。

 紙が白いまま増えていくのを見るのが嫌だった。

 ある夕方、マルタが掃除に来た。


「坊ちゃん、窓を開けてもよろしいですか」

「寒いよ」

「少しだけ空気を入れましょう」


 マルタが窓を開けると、庭から木剣の音が聞こえた。

 僕は顔を背けた。


「閉めて」

「はい」


 窓は静かに閉まった。

 夜、台所へ水を汲みに行くと、ゴードン爺さんがいた。

 帳面を広げ、明日の荷車の数を確かめている。


「坊ちゃん、お久しぶりですな」

「……うん」

「村の水路は、今年も何とか流れています」


 僕は思わず顔を上げた。


「僕がいなくても?」

「もちろんです。皆で直しましたから」


 爺さんは当たり前のことのように言った。

 僕は胸が痛くなった。

 自分がいなくても、ちゃんと続いている。

 嬉しいことのはずなのに、今は少し寂しかった。

 部屋へ戻り、帳面を開いた。


『水路は、今年も流れている』


 久しぶりに、新しい一行を書いた。

 それだけでその日は終わった。

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