二学期の始まりと、神様の気まぐれな席替え
長いようで一瞬だった夏休みが明け、校舎には再び生徒たちの賑やかな声が戻ってきた。
久しぶりに袖を通した長袖のワイシャツは少し窮屈で、まだ夏の残り香が漂う教室の空気は、どこか気怠げだった。
「おはよ、いつま」
教室の入り口で、藍庭鷗賀とばったり出くわした。
今日の彼女は、いつもの元気なポニーテールに戻っていた。夏休みの最終日に見せた、あのダウンスタイルの大人っぽい雰囲気はどこへやら、今はすっかり見慣れた『幼馴染の鷗賀』だ。
だけど、俺――真名依真と目が合った瞬間、彼女はすぐに視線を泳がせ、制服のスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
「……おうか。おはよ」
「う、うん。今日も暑いね……」
すれ違いざま、ほんのりと青リンゴの香りが鼻腔をくすぐる。
周囲の奴らは誰も気づいていない。だけど、俺たちの間には、あの夏休みの最後の夜に交わした『約束』と、額へのキスの記憶が、確かに熱を持って横たわっていた。
――『世界で一番失いたくない人』だから、恋人にはなれない。
いつだったか、鷗賀は冗談めかしてそんなことを言っていた。
恋人になれば、いつか別れが来るかもしれない。別れてしまえば、生まれた時からずっと隣にいた『依真』という存在を、永遠に失ってしまうことになる。それが怖いから、彼女は俺を『安全なお兄ちゃん』という檻に閉じ込めておきたかったのだ。
だけど、俺はその檻をこの夏で叩き壊した。
距離感をバグらせ、男としての俺を嫌というほど意識させた。もう、元の「ただの幼馴染」に戻ることなんて、神様が許しても俺が許さない。
「よし、全員揃ったな。じゃあ、二学期が始まった早々だが、担任の特権で席替えを行う!」
ホームルームが始まるやいなや、担任の教師が黒板に大きな座席表を書き始めた。
教室中から「よっしゃあ!」という歓声と、「えー、今の席が良かったのに」というブーイングが同時に巻き起こる。
「いつま、どうしよう……。私、一番前の席になったら授業中寝られないよ……」
通路を挟んだ斜め前の席から、鷗賀が不安そうな顔で振り返ってきた。
「自業自得だろ。お前は少し前で先生に見張られてた方がいいんだよ」
「ひどい! いつまのケチ!」
そんな軽口を叩き合いながらも、俺の視線は黒板の座席表に集中していた。
なろう小説の定番なら、ここで主人公とヒロインが奇跡的に隣同士になるのがお約束だ。だけど、現実の神様はそこまで優しくない。
ガラガラと、教卓の上に置かれたクジ引きの箱。
生徒たちが次々とクジを引いていき、俺たちの席が決定していく。
結果は――。
鷗賀の席は、窓側の後ろから二番目。一番人気の、いわゆる『主人公席』だった。
そして俺の席は、廊下側の一番前。完全に教室の対角線、最悪のディスタンスだった。
「あはは! いつま、廊下側の一番前だって! 先生の特等席じゃん、がんばってね!」
自分の席が気に入ったのか、鷗賀は嬉しそうに俺を茶化してきた。俺と席が離れたことに、少しだけ寂しそうな顔を見せたものの、基本的にはまだ暢気なものだった。
――あぁ、やっぱり分かってないな、お前は。
俺が、お前と離れた席でおとなしく授業を受けるとでも思ったのか?
「先生、ちょっといいですか」
俺はすっと手を挙げた。
「なんだ、真名。席の不満は受け付けんぞ」
「いえ、そうじゃなくて。俺、最近ちょっと視力が落ちてきて、黒板の廊下側の文字が光の反射で見えにくいんです。できれば、窓側の後ろの方の席の人と代わってもらえませんか?」
大嘘だった。俺の視力は左右とも1.5の健康そのものだ。
「なんだと? じゃあ、窓側の後ろの方の奴で、一番前でもいいって奴は……」
先生が教室を見渡した瞬間、俺はすかさず、鷗賀の隣の席(窓側の一番後ろ)に決まっていた男子生徒――陸上部のチームメイトで、俺とも仲の良い男――に視線を送った。
そして、夏休みに彼の恋愛相談に乗ってやった時の『貸し』を思いださせるように、静かに微笑んでみせた。
「あ、先生! 俺、一番前でも全然いいっすよ! 真名、席代わってやるよ!」
「お、おう、木村がそう言うなら、真名と木村、席を入れ替えろ」
交渉成立。
俺は心の中で小さくガッツポーズを決め、スクバを持って移動を始めた。
「え……? えええっ!??」
一部始終を見ていた鷗賀が、椅子からひっくり返りそうなほどの声を上げて硬直していた。
俺が移動した席は、木村のいた『窓側の一番後ろ』。
つまり、窓側の後ろから二番目である、鷗賀の『真後ろの席』だった。
「よ、よろしくな、おうか」
俺は彼女の真後ろの席に腰を下ろし、前の席の背もたれに軽く肘を置いて、驚愕に目を見開いている彼女の顔を覗き込んだ。
「いつ、ま……お前、視力悪くないじゃん! 絶対嘘でしょ!」
「さあね。でも、これで二学期も、お前のことを一番近くで見張れるようになった」
俺は周囲に聞こえないくらいの低い声で囁き、ニヤリと意地悪に笑った。
「授業中、サボってたら後ろから小突くからな」
「う、うぅ……っ」
鷗賀は顔を真っ赤に染め、今さら逃げられない現実を突きつけられて、大人しく前を向いた。
だけど、彼女の背中が、あからさまに緊張で強張っているのが、後ろの席の俺には手に取るように分かった。
授業中、彼女が少しでも動けば、その綺麗なポニーテールが俺の机の端にかする。
彼女がシャーペンを落とせば、俺がそれを拾って、手渡す瞬間にその指先に触れることができる。
教室という、他の奴らがたくさんいる空間。だけど、俺たちの距離は、夏休み前よりも圧倒的に、バグったまま近くなっていた。
「……いつまの、バカ」
前の席から、小さな、本当に小さな呟きが聞こえた。
俺は教科書を開きながら、その声に満足げに口元を緩めた。
二学期も、俺の『心動大作戰』は健在だ。お前が「失いたくないから」なんて言い訳を言えなくなるまで、この特等席から、ずっとお前を狂わせ続けてやる。




