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8/11

夏休みの終わりと、ひみつの約束

カレンダーの数字が残り少なくなっていく八月の三十一日。

学生たちにとって、一年で最も憂鬱で、それでいてどこか特別で切ない『夏休み最終日』がやってきた。


結局、あの海の日以来、俺と藍庭鷗賀あいにわ おうかは部活の予定を縫うようにして、ほぼ毎日顔を合わせていた。宿題を終わらせるという建前はとっくに消え去り、ただ「一緒にいたいから」という無言の理由だけで、俺たちは互いの部屋を行き来していた。


そして、この夏最後の日の夕方。

鷗賀からの「ちょっとだけ、お散歩付き合って」という珍しく控えめな誘いで、俺たちは近くの公園の展望台へと向かっていた。


「あーあ、明日から二学期かぁ……。制服着るの、ちょっと面倒くさいな」


階段を上りながら、鷗賀が自分の髪をいじりつつ呟いた。

今日の彼女は、いつものポニーテールではなく、髪をそのまま下ろしたダウンスタイルだった。白いノースリーブのワンピースに、薄手のカーディガンを羽織っている。風が吹くたびに、彼女の長い黒髪がふわりと揺れて、いつもの『陸上部のエース』とは違う、大人の女性のような雰囲気を醸し出していた。


「お前、宿題は全部終わったんだろうな? また始業式の朝に泣きつかれても手伝わないからな」

「もう! いつまのスパルタのおかげで、一昨日全部終わらせたってば! 失礼しちゃうな」


鷗賀はぷっと頬を膨らませて、俺の先を歩いていく。

ぶかぶかだった俺のローファーではなく、お気に入りのサンダルを履いた彼女の足取りは軽やかだったが、その背中にはどこか寂しげな色が混じっていた。


展望台の最上階に辿り着くと、そこからは街が一望できた。

夕日が街全体を真っ赤に染め上げ、遠くの地平線からは、夜の帳がゆっくりと下りてきている。涼しい夜風が、俺たちの火照った肌を優しく撫でて通り過ぎていった。


「……綺麗だね、いつま」

鷗賀は手すりに両手を預け、遠くを見つめた。

「うん。夏が終わるな」


俺が彼女の隣に並ぶと、彼女はふっと視線を落とした。

「ねえ、いつま。この夏、なんか凄く長かった気がする」

「そうか? 俺は一瞬だった気がするけど」

「私は、すっごく長かったよ。……だって、毎日いつまのことで頭がいっぱいだったんだもん」


鷗賀は、自分の手をぎゅっと握りしめながら、消え入りそうな声で白状した。

その横顔は、夕日の赤さに負けないくらい、ほんのりと紅潮していた。


「今まではさ、夏休みが終わるのって『部活が忙しくなるな』とか『朝起きるの嫌だな』ってことしか考えてなかったの。でも、今は……明日から学校が始まるのが、ちょっとだけ怖いんだ」

「怖い?」


「うん。学校に行ったら、いつまは別の教室にいっちゃうし。一ノ瀬さんみたいに、可愛い下級生がまたいつまのこと呼び出すかもしれないし……。私、学校でのいつまの『特別』じゃなくなっちゃう気がして」


彼女は、手すりを握る指先にぎゅっと力を込めた。

学校という公の場に戻れば、二人はただの「同じ学年の生徒」であり「幼馴染」という枠組みに戻されてしまう。それが、今の彼女にとっては耐え難いほどの不安なのだ。

もはや彼女は、俺を『安全圏』に閉じ込めておくだけでは満足できず、俺を自分のものとして『独占』したいと、心の底から願っている。


愛おしさと、勝利の確信が、俺の胸の中に満ちていく。

300話に及ぶ長編の、まだほんの序章。だけど、この夏の間に、俺は彼女の心を完全に作り変えることに成功したのだ。


「おうか」

俺は彼女の手の上に、自分の手をそっと重ねた。


「――っ」

鷗賀がびくりと肩を揺らし、濡れた瞳で俺を見上げてくる。


「学校が始まろうが、何が起きようが、俺がお前以外の奴を特別にすることはない。それは、この夏の間ずっと証明してきただろ?」

「でも……いつまはモテるし、私、可愛くないし……」


「まだそんなこと言ってるのか」

俺は苦笑しながら、重ねていた手を滑らせ、彼女の細い腰を引き寄せて、自分の胸の中に抱きしめた。


「ひゃっ……!? いつま、ここ、誰か来たら……」

「誰も来ないよ。夏休みの最後の日のこんな時間に、ここに上ってくる物好きは俺たちだけだ」


俺は彼女の背中に手を回し、その華奢な身体を強く、深く、俺の胸へと押し付けた。

下ろされた彼女の髪から、いつもの青リンゴの香りが、少し大人っぽいシャンプーの香りに変わっていることに気づく。彼女なりに、今日のデートのために背伸びをしてくれたのだろう。その健気さが、たまらなく愛おしい。


「不安なら、約束してやる」

俺は彼女の耳元で、一言一言を刻み込むように囁いた。


「二学期が始まっても、放課後は毎日お前の部活が終わるのを待つ。休日は、お前が嫌だって言っても俺の部屋に呼び出す。他の女からの手紙は全部その場で断る。……これで、満足か?」


俺の腕の中で、鷗賀はしばらくじっと固まっていたが、やがて、小さくコクンと首を縦に振った。

そして、俺のシャツの裾を、両手でぎゅっと、引きちぎらんばかりの強さで掴んできた。


「……足りない」

「え?」


「それだけじゃ、足りないよ……。いつま、私、もっといつまの『特別』が欲しい。……だから、明日からの学校でも、ちゃんと私だけを見てて」


彼女は俺の胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で、だけど明確な独占欲を露わにした。

かつて「男として見たことない」と大笑いしていた少女は、もうどこにもいなかった。ここにいるのは、俺の愛に飢え、俺の特別でありたいと願う、一人の恋する女の子だ。


「あぁ。約束するよ、おうか」


夕日が完全に沈み、街の灯りがポツポツと輝き始める。

俺たちの夏休みは、ここで終わる。

だけど、俺たちの『心動大作戰』は、ここからさらに加速していくのだ。


俺は彼女の額に、そっと触れるだけの優しいキスを落とした。

驚いて顔を跳ね上げた鷗賀の、涙で潤んだ世界一可愛い笑顔を、俺はこの先もずっと、独り占めし続けることを心に誓った。

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