授業中のひそひそ話と、ノートの切れ端
席替えから二日。
俺の読み通り、窓側の一番後ろという『真名依真の特等席』は、前を座る藍庭鷗賀に対して絶大な効果を発揮していた。
黒板に向かって真面目に授業を聞いている彼女の背中は、心なしかいつもよりピンと伸びていて、少しもリラックスできていない。
それもそのはずだ。俺がわざとペンを回す音を立てたり、ふぅと小さくため息をついたりするたびに、彼女の肩がピクリと跳ね上がる。後ろから熱い視線が常に注がれているという事実は、陸上部のエースである彼女の優れた危機察知能力を、完全に狂わせていた。
(……可愛いな、おい)
英語の授業中、先生が黒板に長い例文を書き込んでいる隙に、俺は前の席の背もたれに軽く肘を置き、彼女の様子を観察していた。
鷗賀の白い首筋が、授業の退屈さとは違う理由でじわじわと赤くなっていく。
限界が近かったらしい。
カサカサ、と前の席で微かに紙を破る音が聞こえた。
鷗賀は先生の動きを盗み見ながら、自分の英語のノートの端を小さく千切り、シャーペンで急いで何かを書き込んだ。
そして、左手を後ろにそっと回し、机の隙間からその小さく折り畳まれた紙切れを、俺の机の上に滑り込ませてきた。
紛れもない、授業中の『密書の回し紙』だ。
俺は先生に見つからないように、手元でその紙切れを開いた。
そこには、彼女の少し丸っこくて癖のある文字で、こう書かれていた。
『ねえ、後ろから視線送りすぎ! 気になって全然英語の頭にならないんだけど! 前向いて!』
語尾に怒った猫のイラストが添えられているのが、いかにも鷗賀らしくて口元が緩む。
俺は自分のシャーペンを取り出し、その紙切れの余白に一言だけ書き加えた。
『前は向いてる。お前が俺の正面にいるだけだ。それより、次の長文、お前が指されるぞ』
小さく折り畳み、彼女の背中に向かってそっと指先で弾く。
紙切れが彼女の背中に当たって机の上に落ちると、鷗賀は慌ててそれを手の中に隠し、机の下でこっそり開いた。
次の瞬間、彼女の背中がビクッと硬直した。
慌てて教科書に目を落とす鷗賀。そのタイミングで、黒板を書き終えた先生が振り返り、メガネの奥の目を光らせた。
「じゃあ、次の三行目、翻訳してもらうか。……おい、藍庭。読んでみろ」
「は、はいっ!?」
鷗賀は勢いよく立ち上がった。
完全に油断していた彼女は、どこを読めばいいのか分からず、教科書を持ったままパニックになっている。
「えっと、その、三行目は……『I cannot……』」
「その下だ。四行目の『But……』からだぞ」
俺は教科書で口元を隠しながら、彼女にしか聞こえないくらいの小さな声で、後ろからボソッと呟いた。
「あ、四行目の『But, I don't want to lose you……(だけど、私はあなたを失いたくない)』からです!」
鷗賀は俺の助け舟に飛びつき、なんとか教科書の英文を読み上げた。
「……うむ。次はちゃんと聞いておくように。座れ」
「すみませんでした……」
先生の言葉に、鷗賀はホッとしたように椅子に崩れ落ちた。
そして、周りの生徒たちが再びノートを取り始めたのを見計らって、またカサカサと紙切れに文字を書き込み、後ろへ回してきた。
『助かった! ありがといつま! でも、英文の意味がなんか嫌みっぽいんだけど!』
『あなたを失いたくない』――。
それは、まさに彼女が俺に対して抱いている、恋人になれない最大の言い訳の言葉そのものだった。
教科書の偶然の悪戯に、俺は少しだけ冷徹な、だけど熱い感情を込めて、最後の返文を書き込んだ。
『嫌みじゃない。俺はいつだってお前に、その言葉以上の覚悟を求めてる。失うのが怖いなら、一生離れられない関係になればいいだろ』
今度は弾くのではなく、彼女の机の端に、俺の指先で直接その紙をトントンと叩いて置いた。
一瞬、俺の指が彼女の背中に軽く触れる。
鷗賀はその紙を受け取り、開いた瞬間――完全にフリーズした。
キーンコーンカーンコーン――。
絶妙なタイミングで、授業終了を告げるチャイムが教室に響き渡る。
「よし、今日の授業はここまで。号令」
先生が教室を出て行った瞬間、鷗賀はバッと弾かれたように後ろを振り返った。
その顔は、これまでに見たことがないくらい真っ赤に染まっていて、瞳には涙が少し潤んでいた。
「いつまの、バカ……!! 授業中に、そんなの、ずるいよ……っ!」
彼女は手の中に紙切れをぎゅっと握りしめたまま、周囲の目を気にするように声を潜めて、俺を睨みつけてきた。
だけど、その怒り顔の裏側にあるのは、完全に男としての俺の言葉に、心臓をハッキングされた女の子の表情だった。
「ずるくないよ。これが、お前の真後ろの席を手に入れた俺の特権だ」
俺は机に頬杖をつきながら、彼女の真っ赤な顔をじっと見つめて、優しく微笑んだ。
鷗賀は耐えかねたように再び前を向いて、机に突っ伏してしまった。
激しく揺れる彼女のポニーテールを見つめながら、俺は次の休み時間、どうやって彼女をさらにからかおうかと、静かに企み始めていた。




