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体育祭の足音と、コート上のライバル

九月に入り、校内の空気は一気に『体育祭』の熱気へと塗り替えられていった。

進学校とはいえ、我が校の体育祭は地域でも評判になるほど盛り上がる。特に各クラス対抗のリレーや、部活動対抗レースは、生徒たちのプライドが激突する一大イベントだった。


「いつま! 今年のクラス対抗リレー、アンカーはいつまに決まったからね!」


放課後、席を立つなり、前の席の藍庭鷗賀あいにわ おうかがバッと振り返って俺の机を両手で叩いた。

彼女はすでに陸上部のジャージに着替えており、その瞳はいつになくらんらんと輝いている。


「は? なんで俺がアンカーなんだよ。クラスにはもっと足の速い奴がいるだろ」

「ダメ! 私が女子のアンカーなんだから、男子のアンカーはいつまじゃなきゃ絶対嫌! もう推薦枠で名前書いちゃったもんねー」


鷗賀はいたずらっぽく胸を張り、にひひと笑った。

夏休みの一件以来、二人きりの時は照れてばかりの彼女だったが、こうして体育祭という大義名分があると、昔のような距離感でぐいぐい踏み込んでくる。

なるほど、クラスのみんなの前なら『ただの幼馴染』の顔をしていられるから、彼女にとってはここも一種の防衛線なのだろう。


「勝手に決めるな。……まぁ、お前がそこまで言うなら走ってやるけど」

「やった! さすがいつま、話がわかる! じゃあ私、部活の合同練習があるからグラウンド行ってくるね!」


鷗賀は嬉しそうにカバンを掴むと、風のように教室を飛び出していった。

その背中を見送りながら、俺も少し体を動かすか、とグラウンドへ向かうことにした。アンカーを務める以上、無様な走りはできないし、何より彼女の走る姿を特等席で眺めるためだ。


だが、グラウンドに到着した俺の目に飛び込んできたのは、予想もしない光景だった。


「――藍庭、今の踏み切り、少し上体が後ろに流れすぎてるぞ。もっと重心を前に残すイメージだ」

「あ、はい! 黒岩先輩、もう一回お願いします!」


跳躍のピット(砂場)の横で、鷗賀が真剣な表情である男子生徒と向かい合っていた。

黒岩先輩――陸上部の部長であり、昨年の県大会でも上位に入賞した、校内でも有名なスポーツ特待生だ。高身長でスタイルが良く、端正な顔立ちも相まって、女子生徒からの人気も高い男だった。


黒岩先輩は、鷗賀のフォームを指導するために、彼女の腰にそっと手を添えた。

「こうだ。ここに軸を意識しろ」

「あ……なるほど! 流石先輩、すごく分かりやすいです!」


鷗賀は純粋に技術的なアドバイスに感動して、満面の笑みを黒岩先輩に向けていた。

そこに邪念は一ミリもない。それは分かっている。


だけど――胸の奥で、どす黒い感情が音を立てて湧き上がった。


俺以外の男が、彼女の身体に触れている。

俺以外の男に、彼女があんな無防備でキラキラした笑顔を向けている。


夏休みの間、俺だけが独占していた彼女の特別な表情が、他の男の前に晒されているという事実が、俺の理性を激しく揺さぶった。


「……真名? 何突っ立ってんだよ」

グラウンドの隅にいたクラスの男子に声をかけられ、俺は自分が無意識に拳を強く握りしめていたことに気づいた。


「いや、なんでもない。リレーの練習、始めるか」

俺は視線を黒岩先輩から外し、トラックへと歩き出した。


それから一時間、俺はひたすらバトンパスの練習に打ち込んだ。

頭の中のモヤモヤを振り払うように、地面を強く蹴る。だけど、視界の端には、常に黒岩先輩と親しげに話す鷗賀の姿が映り込んで離れなかった。


練習が終わり、夕闇がグラウンドを包み込む頃。

部員たちが片付けを始める中、俺は水飲み場で顔を洗っていた。冷たい水が、火照った肌と、イライラした心を少しだけ鎮めてくれる。


「いつまー! お疲れ様!」

後ろからパタパタと足音がして、鷗賀がやってきた。

「いつまの走り、遠くから見てたよ! やっぱり現役並みに速いじゃん、これなら今年の優勝は間違いないね!」


彼女はいつもの調子で俺の隣に並び、自慢げに笑った。

だけど、今の俺には、その笑顔すら素直に受け止める余裕がなかった。


「……黒岩先輩と、仲が良いんだな」

気がつけば、少し冷ややかな声が口から漏れていた。


「え? あ、黒岩先輩? うん、先輩は陸上部の部長だし、すごく教えるのが上手なんだよ。今日の跳躍のアドバイスも、的確でさ……」

嬉しそうに先輩の褒め言葉を並べる鷗賀。


その瞬間、俺の中で何かがプチリと切れた。


俺は濡れた手のまま、鷗賀の手首を掴み、水飲み場の裏側にある日陰の壁へと彼女を押し込んだ。


「――ひゃっ!? いつま、何……っ?」

突然のことに、鷗賀が小さな悲鳴を上げる。

周囲にはまだ部員たちがいるが、水飲み場の裏は死角になっていて、誰からも見えない。


「いつま、顔、怖いよ……。どうしたの?」

鷗賀は怯えたような、だけどどこか熱を帯びた瞳で俺を見上げてきた。


「お前、男なら誰にでもあんな風に触らせるわけ?」

「え……?触らせるって、何のこと……」

「黒岩先輩だよ。腰、触られてただろ。嬉しそうに笑ってさ」


俺は彼女の両手首を壁に固定し、上から覆いかぶさるように距離を詰めた。

夕方の冷たい風が吹いているはずなのに、二人の間の空気だけが、狂ったように熱くなっていた。


「な、何言ってるの……! 先輩はただ、フォームの指導をしてくれただけで……」

「指導なら、言葉だけで十分だろ。……俺以外の男に、あんな顔見せるな」


「いつ、ま……もしかして、妬いてるの……?」

鷗賀の長い睫毛が、激しく震えた。

彼女の瞳に、嫉妬で完全に余裕をなくしている俺の姿が映る。


「あぁ、妬いてるよ。めちゃくちゃに苛ついてる」

俺は隠すことなく、自分の独占欲を彼女にぶつけた。

「お前の身体に触れていいのも、お前をそんな風に笑わせるのも、俺だけでいい。……それとも、あいつの方がいいわけ?」


「そんなわけないじゃん……っ!!」

鷗賀が、泣き出しそうな声で叫んだ。

「私が、いつま以外の男の人のこと、そんな風に思うわけないでしょ! 先輩はただの先輩だよ! 私が、誰のために……誰のために、あの水着を選んだと思ってるの……っ!」


彼女の目から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。

その涙を見た瞬間、俺の胸の奥のイライラは、急激に甘い罪悪感へと変わっていった。


「おうか……」

「いつまのバカ……。私、いつまに嫌われたくなくて、ずっといつまのことばっかり考えてるのに……なんでそんな意地悪なこと言うの……」


鷗賀は俺の胸元に額を押し付け、小さな肩を震わせて泣きじゃくった。

彼女の『安全圏』は、学校に戻っても機能していなかった。むしろ、俺の嫉妬を直接ぶつけられたことで、彼女は自分がどれだけ俺に支配されているかを、再確認させられることになったのだ。


俺は固定していた彼女の手首を離し、その華奢な身体を、壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。


「……ごめん。やりすぎた」

彼女の髪に顔を埋め、青リンゴの香りを深く吸い込む。

「お前が他の男と話してるだけで、頭がおかしくなりそうなんだ。……それだけ、お前が愛おしいんだよ」


「……バカいつま。もう、知らない……」

鷗賀は俺のシャツをぎゅっと掴み、胸元に顔を埋めたまま、小さな声で悪態をついた。だけど、その腕には、俺から離れたくないという明確な意思がこもっていた。


体育祭の足音が近づく二学期のグラウンド。

新しく現れたライバルの存在は、皮肉にも、二人の独占欲をさらに燃え上がらせる着火剤となった。


俺は彼女の涙を優しく拭い、誰もいない水飲み場の影で、しばらくの間、その愛おしい温もりを抱きしめ続けた。

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