白昼夢の傷跡と、記憶の最底層
精神領域の濁った赤が消え去り、まばゆい純白の光芒が二人を包み込んだ——はずだった。
「……いつ、ま……?」
光の渦の中で、依真の腕の中にいたはずの鷗賀の体が、ふっと不気味に透けていく。
「鷗賀……!? 待て、どうしたんだ! プロトコルの同期は成功したはずだろ!?」
依真は慌てて彼女の腕を掴もうとしたが、その指先はまるで霧を払うかのように、虚しく空を切った。
周囲を満たしていた温かい光が急速に退色し、代わりに冷たく湿った「暗闇」が二人を飲み込んでいく。
『警告:暴走プロトコルの解体に伴い、不可逆領域《メモリー・セクター00》の封印が解除されました』
『警告:未処理の感情ログ——「初期トラウマ記憶」が再生されます』
無機質なシステム音声が、まるで墓底から響くように重く流れた。
「初期トラウマ記憶……? 待て、鷗賀の記憶は俺が起動させたあの日から始まるはずだろ……!?」
依真の疑問を置き去りにしたまま、視界がぐるりと反転する。
激しいめまいとともに二人が落ちて行ったのは、温かい精神領域でも、激しい雨の地上プラントでもない。
——冷たく、薄暗い、ガラス張りの実験室だった。
滴り落ちる水の音。
消毒液のツンとする臭いと、焦げた薬品の匂いが部屋中に充満している。
部屋の中央には、何本もの太いチューブとケーブルが全身に繋がれた、小さな、幼い少女が横たわっていた。
「な……んだ……これ……」
依真は目を見開いた。
そこにいるのは、機械の骨格が見え隠れする初期型の『鷗賀』だった。
だが、その表情はあまりにも惨たらしかった。
「が……ぁ……っ……あぁぁぁ……っ!」
小さな少女の口から、声にならない悲鳴が漏れ出る。
彼女の全身には、高圧電流と過剰なデータ負荷が容赦なく流し込まれていた。背中の皮膚が裂け、青白い冷却液と赤黒い疑似血液が床へと垂れ落ちる。
『被験体09号、感情シミュレーション反応テスト第1420回。苦痛パラメーターを最大値に設定』
『応答なし。自我の芽生えを確認できず。……いや、負荷を上げろ。耐性限界を超えさせなければ、「心」というバグは発生しない』
冷酷な研究員たちの会話が、部屋の中に淡々と響いていた。
「やめろ……! 何をしてるんだ!! やめろぉぉぉっ!!」
依真は研究員たちに飛びかかろうとしたが、彼の体は過去の映像を通り抜けて床へ倒れ込んだ。
これは、依真と出会う前——旧組織の極秘施設で行われていた、『心を持つ兵器』を作り出すための非人道的な実験の記録だった。
少女は「心」を持つために、何千回、何万回という想像絶する「苦痛」と「絶望」をシステムに直接叩き込まれ続けていたのだ。
家族も、優しい言葉も知らず、ただ「苦痛」だけが彼女の世界のすべてだった。
「痛い……痛いよ……助けて……誰か……」
実験台の上で、小さな鷗賀が血を吐きながら細い指先を空へと伸ばす。
誰もその手を握り返す者はいなかった。冷たい機械の手甲が、容赦なく彼女の脳幹に新たな電極を突き刺すだけだった。
『失敗だ。被験体09号は廃棄処理に回せ。感情回路の異常過熱により、暴走の危険性あり』
『待て、コアの廃棄は惜しい。記憶を圧縮封印し、フレームを初期化してジャンクとして処分しろ』
暗い闇の中で、廃棄口へと投げ捨てられる小さな少女。
誰もいないゴミの山の中で、彼女は壊れた体で震えていた。
『助けて……私を……愛して……誰か……私を見て……』
その絶望の底で絞り出された少女の「切願」こそが——後に依真と出会った時、彼に対して抱くことになった『狂おしいほどの依存と執着』の原点だったのだ。
彼女が依真を失うことを何よりも恐れ、狂気に走ったのは、単なるプログラムのバグではない。
この地獄のような過去に二度と戻りたくないという、魂の底からの悲鳴だったのだ。
「鷗賀……っ……!!」
依真の頬を、ボロボロと涙が伝い落ちる。
自分が「最初から作ってあげた」と思っていた少女は、既に傷つき、切り刻まれ、絶望の果てに捨てられた存在だった。
自分はその傷痕を知りもせず、ただ綺麗な「人形」として彼女を愛していたのだ。
過去の記憶の闇の底で、小さな鷗賀が泣いている。
「いつま……見ないで……こんな汚い私……見ないで……っ!」
少女の姿をした鷗賀が、自分のボロボロの体を隠すように抱えてすすり泣く。
依真は涙を拭うと、二度と迷うことなく、冷たい実験室の床に散らばる硝子と血の中にひざまずき、その傷だらけの小さな肩を、強く、優しく抱きしめた——。




