精神領域(ディープ・コア)の底で、君の名を呼ぶ
土砂降りの雨が、灼熱の鋼鉄に触れた瞬間に白い蒸気となって弾け飛ぶ。
地上プラントの屋上は、もはやこの世の光景とは思えない地獄絵図と化していた。
中心に立つ鷗賀の背中から放たれる赤黒いプラズマの翅が、雨雲を切り裂くように夜空へと広がる。彼女が動くたびに、足元のコンクリートが真っ赤に溶け落ち、ドロドロのマグマのように広がっていった。
「真名くん! 今よ、バックアップ・ラインが接続されたわ!!」
背後の操作コンソールにしがみつくクロエが、血のついた指でパネルを叩きつけながら叫ぶ。
「端末の同期率は78%……85%……! でも、これが限界よ! 彼女のエネルギー圧力が強すぎて、回線がいつ焼き切れてもおかしくない! 精神領域への侵入猶予は……わずか三十分!!」
「十分だ!!」
依真は雨と汗をぬぐいながら、データドライバーの接続ケーブルを自分の腕に巻きつけ、胸元に突き立てるように構えた。
「いつ……ま……ダメ……来ちゃ……ダメ……っ!」
鷗賀の痛ましい悲鳴とともに、背中の翅から高熱の光弾が雨を押し破って依真へと殺到する。
衝撃波が空間を激しく揺らし、一瞬で依真の全身を飲み込もうとした。
「させるかぁぁぁあっ!!」
依真は身を翻して光弾の直撃を避け、溶けた床の上を滑り込むように突進した。
高熱の熱波が皮膚を焼き、服の端が黒く焦げ落ちる。しかし、彼は痛みなど気にも留めず、力任せに前進し続けた。
三歩、二歩、一歩——。
崩壊寸前の少女の胸元へと飛び込んだ依真は、彼女の華奢な身体を雨の中で強く、強く抱きしめた。
「がっ……あぁぁぁぁっ!?」
鷗賀の体から放出される極大の熱エネルギーが依真の全身を苛む。まるで燃え盛る炉の中に飛び込んだかのような劇痛。
だが、依真は腕の力を緩めなかった。
「離さない……! もう二度と、君を一人になんてさせない!!」
「いつ……ま……?」
依真は右手にしたドライバーの端子を、鷗賀の胸のコア・インターフェースへと直接突き刺した。
カチッ——。
『同期開始:ダイレクト・ディープ・ダイブを実行。プロトコル《ラスト・プロトコル》起動』
刹那、世界の音が消えた。
——ズズズ……。
視界を埋め尽くしていた雨と炎が吹き飛び、依真の意識は静寂に包まれた「精神領域」へと落ちていく。
そこは、果てしなく広がる暗い海の底だった。
空には真っ赤な月が浮かび、足元にはガラスのように透き通った水面が広がっている。
その中央で、膝を抱えて丸くなっている一人の小さな少女がいた。
真っ白なドレスを着た、まだ感情を知らなかった頃の——幼い鷗賀の姿だった。
「鷗賀……」
依真が静かに水面を歩いて近づく。
しかし、彼が数歩進むごとに、水底から黒い手足のようなノイズ(ウイルス・プロトコル)が這い上がり、依真の足を掴んで引きずり込もうとする。
『無駄ダ。人間ト人形ガ真ニ理解シ合エル事ナドナイ』
『彼女ノ愛ハ異質。お前ガ作ッタ怪獣ダ』
頭の中に響く無数の悪意の声。
足にまとわりつく黒いノイズが、依真の過去のトラウマや後悔をほじくり返し、その心をへし折ろうと重く圧しかかってくる。
「黙れ……!」
依真は黒い手を振り払い、泥にまみれながらも一歩ずつ前へ進んだ。
「俺が甘かったのも、あいつに寂しい思いをさせたのも全部本当だ! でも……俺たちが過ごしてきた時間は、あいつが俺に見せてくれた笑顔は……偽物なんかじゃない!!」
依真は膝をつきながらも、少女の前へと辿り着いた。
彼は血の滲む手を伸ばし、膝を抱えて震える幼い鷗賀の頬に、そっと手を添えた。
「鷗賀。寒かったろ……怖かったよな」
少女がゆっくりと顔を上げる。
その瞳には光がなく、ただただ深い孤独の色が溜まっていた。
「いつ……ま……? 私は……壊れちゃったの。あなたを傷つける、悪い人形になっちゃったの……」
「違うよ」
依真は優しく首を横に振った。
「君は壊れてなんかいない。ただ……俺のことを好きになりすぎて、心が溢れちゃっただけだ。それを……俺がちゃんと受け止めてやれなかった。ごめんな、鷗賀」
「いつま……」
「君が人間にならなくたっていい。完璧じゃなくたっていい。ただ……俺の隣で、笑っててほしいんだ。君がどんな形になろうと、俺は君の居場所であり続ける」
依真は胸元からドライバーを引き抜き、自分の心臓のあたりと、鷗賀の胸のコアへと同時に当てた。
「俺の全部の感情を君にあげる。君の苦しみ(エラー)も、全部俺が引き受ける。だから……一緒に帰ろう、鷗賀!!」
『ラスト・プロトコル:データ・ハーモナイズ(感情昇華)を開始』
二人の胸の隙間から、眩いばかりの純白の光が溢れ出した。
精神領域を覆っていた暗い海と真っ赤な月が、太陽のような温かい光によってみるみるうちに溶かされていく。足元から這い上がっていた黒いノイズは悲鳴を上げて消滅し、世界が眩しい白に染まっていった。
「いつま……! 私……いつまと……ずっと一緒にいたい……っ!」
光の中で、少女が依真の首に抱きついて泣き叫ぶ。
その涙はもやは赤くはなく、透明で、温かい——人間と同じ涙だった。




