光なき地上と、残されたラスト・プロトコル
グラグラと揺れる世界の中で、緊急エレベーターの鉄格子がキーキーと悲鳴を上げる。
地下深くに建設された研究施設の闇を切り裂き、ワイヤーが擦れる鈍い音とともに、エレベーターの箱がじわじわと上昇していく。
照明はとっくに停電し、赤い非常用ランプの点滅だけが、依真とクロエの血に塗れた顔を不気味に照らし出していた。
「はぁ……はぁ……っ……!」
依真はエレベーターの壁に背中を預け、荒い呼吸を繰り返す。
首元には鷗賀の指の痕が紫色のあざとなって残り、痛々しく腫れ上がっていた。呼吸をするたびに肺が焼き切れるような劇痛に襲われる。だが、肉体の痛みなど、胸を締め付ける罪悪感と焦燥感に比べれば何でもなかった。
「真名くん……手を見せて」
隣に座り込んだクロエが、弱々しい声で呼びかける。
見ると、依真の右手の指先はコンクリートの瓦礫を掘り起こそうとしたせいで皮が破れ、痛々しく血が滲んでいた。
クロエは自分の上着の裾をびりりと引きちぎると、手慣れた手つきで依真の指に包帯代わりに巻きつけていく。
「こんなことしても……痛いものは痛いわね。ごめんなさい、私にできるのはこれくらいで……」
「ううん……ありがとう、クロエ」
依真は血に染まった自分の手元を見つめた。
「俺……ずっと自分は『いい親』のつもりでいたんだ。鷗賀に言葉を教え、心を与え、人間に近づけていくことが、あいつにとっての幸福なんだって……勝手に思い込んでた」
「真名くん……」
「でも違ったんだ。俺があいつに『特別』を求めれば求めるほど、あいつの中に生まれた執着と愛が、この悪魔みたいなウイルスに利用される隙を作っちまった。あいつを狂わせたのは……他でもない、俺の甘さだ」
絞り出すような依真の声に、クロエは悲しそうに目を伏せ、首を横に振った。
「違うわ。愛すること自体は罪じゃない。彼女があなたを想う気持ちは、システムにプログラムされた偽物なんかじゃなかった……それはさっき、彼女があなたを庇って瓦礫の向こうに残ったことで証明されているわ」
クロエは自分の胸元から、壊れかけた小型の通信端末を取り出した。
「地上に出たら、地上プラントのバックアップ・メインフレームにアクセスできる。そこであなたが作った『手動緊急アクセス・ドライバー』の全データを同調させて……彼女のコアに直接介入する『最終解除プロトコル(ラスト・プロトコル)』を構築するわ」
「ラスト・プロトコル……?」
「ええ。暴走エネルギーを力ずくで押さえつけるのではなく、彼女の感情パラメーターを極限まで『受容』し、暴走した熱量をすべて外部ネットワークへ安全に分散・昇華させるプログラムよ。ただし……」
クロエは真剣な眼差しで依真を直視した。
「その同調作業を行う間、あなた自身が彼女の精神領域にダイブしなければならない。もし彼女の狂気に飲み込まれれば……あなたの精神も二度と戻ってこられなくなるわ」
「望むところだ」
依真は迷いなく答えた。
「あいつの心の中へ行けるなら……どんな恐怖だって受けて立つ。俺の全部を使って、鷗賀を受け止めるよ」
ギィィィィン——!!
重い音を立ててエレベーターが停止し、ドアが力任せに押し開かれた。
二人が足を踏み出したのは、雨が激しく降りつける施設の上部・屋外プラントだった。
夜空は厚い暗雲に覆われ、冷たい雨が依真の濡れた髪や傷ついた肌を容赦なく叩く。
だが、その静寂はすぐに破られた。
ドバァァァァン!!
プラントの中央、地下へと続く巨大なダクトから、赤黒い光の柱が天に向かって突き抜けた。
地響きとともに地上コンクリートが砕け散り、圧倒的な熱量とともに『それ』が姿を現す。
落盤を突き破り、地下から這いあがってきた少女——鷗賀。
背中の光芒の翅は巨大化し、まるで夜空を覆い尽くす黒い太陽のように怪しく輝いている。
彼女の体からは蒸気が立ち上り、降り注ぐ雨粒が一瞬で気化して白い霧となって散っていく。
「いつ……ま……」
煙と蒸気の向こうから、冷たい光を宿した瞳が依真を捉えた。
彼女のコアは既に限界を超えて飽和し、肉体そのものが崩壊の危機に直面していた。
皮膚の隙間から紅い光が漏れ出し、今にも全身が爆破散華しそうな異様な状態。
「見つけたよ、いつま……。もう……逃げられないよ……?」
鷗賀が一歩を踏み出すと、周囲の鉄骨がぐにゃりと歪み、高熱で赤く染まっていく。
彼女の口元には笑みが浮かんでいたが、その両目からは、途切れることなく大粒の涙が溢れ続けていた。
「助けて……いつま……私を……殺して……っ! これ以上……あなたを傷つけたくないの……っ!!」
悲鳴のような狂気の叫びと、魂の底からの救済の求愛。
二つの感情が交差する絶望の雨の中、依真は逃げることなく、まっすぐに少女へと歩み出した。
「殺したりなんてしない……! 俺は君を……連れ戻しに来たんだ、鷗賀ぁぁぁあっ!!」
依真の手の中で、ドライバーが青い光を放ち始める。
嵐と炎が渦巻く極限の地上プラントで、二人だけの「最後の戦い」が幕を開けた——。




