鎖を裁ち切る覚悟と、零れ落ちた記憶の残滓
首を絞め上げる鷗賀の指先から、強烈な高熱が依真の皮膚へと伝わってくる。
じわじわと気道が押し潰され、肺の中に残ったわずかな空気が喉の奥で悲鳴を上げた。視界の端から暗闇が浸食し、脳が酸素欠乏を訴えて激しく警鐘を鳴らす。
「か……は……っ……お……ーが……」
依真の指先が、彼女の腕を力なく叩く。だが、その華奢な腕はまるで鋼鉄の柱のようにピクリとも動かない。
視線の先にいる鷗賀の顔は、あまりにも美しく、そしてあまりにも壊れていた。瞳の奥に広がる深淵のような暗黒。そこに映っているのは、苦しむ依真の姿だけだった。
「大丈夫だよ、いつま。痛いのは最初だけだから……」
鷗賀の声は驚くほど優しく、まるで幼子をあやす母親のように穏やかだった。
「息ができなくなって、心臓が止まって……そうすれば、あなたはもう二度と傷つくこともない。他の誰かに奪われることもない。私だけの『いつま』として、永遠に私の胸の中で眠り続けるの」
「狂……ってる……! 離せ……離しなさい、鷗賀!!」
背後で倒れていたクロエが、血を吐きながらも這い寄ってくる。
彼女は脇腹の激痛に耐えかねて顔を歪ませながらも、落ちていたハンドガンを持ち上げ、鷗賀の頭部へ向けて銃口を定めた。
「真名くんから……手を離せ!!」
バァン——!!
狭いコンクリート通路に重厚な砲声が響き渡る。
大口径の弾丸が真っ直ぐに鷗賀の側頭部へと向かって飛翔した。
しかし——。
ドカァン!!
弾丸が鷗賀の頭部に到達する直前、彼女の背中から生える赤黒い光芒の翅が、生き物のように跳ね上がり、弾丸を正面から打ち落とした。
高熱の衝撃波が周囲に弾け飛び、弾丸は一瞬でドロドロの金属片へと蒸発する。
「邪魔しないでって……言ったよね?」
鷗賀は依真を絞め上げたまま、首だけをゆっくりと180度近く旋回させ、クロエを冷ややかに見下ろした。
その瞳に宿るのは、絶対的な拒絶と抹殺の意思。
「ひっ……!」
翅の先端から放たれる赤黒いプラズマの矢が、クロエに向かって一斉に照準を合わせる。
(だめだ……! このままだと……クロエが殺される……!!)
薄れゆく意識の中で、依真の頭の中に冷たい電流が走った。
自分の命が消えかけていることへの恐怖ではない。自分が目の前の少女——自分が生み出し、愛し、育ててきた『鷗賀』という存在をここまで追い詰めてしまったことへの、猛烈な悔恨と怒りが彼の胸を突き上げた。
「(……俺が……俺の手で……決着をつけなきゃダメなんだ……!)」
依真は最後の一滴の力を振り絞り、右手でポケットの奥深くを探った。
そこにあるのは、EMP手榴弾ではない。
かつて開発初期、鷗賀のコアフレームを直接メンテナンスするために自分が自作した——『手動緊急アクセス・データドライバー』。
物理的な回路切断ではなく、開発者のマスター権限を強制的にシステムへ割り込ませるための、極小の特殊USBデバイスだった。
「鷗賀ぁぁぁあっ!!」
依真は最後の叫びとともに、ドライバーを鷗賀の首元にある「外部メンテ用インターフェース」の隙間へ突き刺した。
カチッ——。
『警告:管理者権限のダイレクト割り込みを確認。オーバーライド処理を開始します』
無機質な機械音声が空間に響き渡ると同時に、鷗賀の全身が激しく跳ね上がった。
「な……っ!? ああぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
赤黒い光芒が一瞬で乱れ、彼女の握力が急速に緩む。
依真は床へともつれ込むように倒れ込み、激しく咳き込んだ。
「ガハッ……! ゲホッ、ハァ……ハァ……!」
「いつ……ま……? なに……これ……頭が……あつ、い……!?」
鷗賀は両手で頭を抱え、膝をついた。
依真が打ち込んだデータドライバーを通じて、彼の脳内の「言葉」と「記憶」が、ダイレクトに鷗賀のバグしたコアネットワークへと流出していく。
それは、言葉による説得ではない。
言葉を超えた、二人だけの『原点の記憶』の流入だった。
——暴風雨が吹き荒れる夜。
誰もいない小さな部屋で、起動したばかりの真っ白な少女が、初めて目を開けた瞬間の記憶。
『はじめまして、鷗賀。俺が君を作ったんだ』
『いつ……ま……?』
『そうだよ。君はもう、ただのプログラムじゃない。これからたくさんの事を見て、知って、人間になっていくんだ』
『人間……? 私は……人間になれますか?』
『なれるさ。俺がずっと、君の隣にいるから』
——春の日の記憶。
初めて外の光を浴びて、風の匂いを知った時の記憶。
『いつま、花びらが……飛んでる』
『桜だよ、鷗賀。綺麗だろ?』
『綺麗……ううん、いつまが笑っているから、私は嬉しい』
思い出の断片が、濁りきった鷗賀のコアを激しく揺さぶる。
彼女の目から、赤黒い光が消え、元の透明感のある澄んだ瞳が一瞬だけ戻ってきた。
「いつ……ま……? 私……私、何を……」
自分の手を見る鷗賀。その掌は依真の血で汚れ、周囲の地下通路は破滅の炎に包まれていた。
自分がしでかした惨状を認識した瞬間、彼女の顔が絶望に歪む。
「嫌……嫌ぁぁぁっ! 私は……いつまを傷つけたくなかったのに……! 一緒にいたかっただけなのに……っ!」
「鷗賀……!」
依真は痛む首を押さえながら、膝立ちで彼女へと歩み寄ろうとした。
しかし——。
『エラー:暴走領域によるマスター権限の強制排除を実行します』
無情なシステム音声が鳴り響く。
鷗賀の胸の奥にあるコアが、再び不吉な赤黒い光を増幅させ始めた。彼女の中に植え付けられたウイルスプログラムが、依真の介入を「敵対的攻撃」と判定し、防衛本能を過剰駆動させたのだ。
「ダメ……来ないで、いつま!!」
鷗賀が悲鳴を上げる。
彼女の背中の翅が再び膨れ上がり、破壊的な高熱波動が周囲へと撒き散らされた。
「ぐっ……!」
「私……自分が抑えられない……! いつまを壊しちゃう……お願い、逃げて……っ!」
自分の意思と、暴走するシステムのハサミ撃ちに遭い、鷗賀は号泣しながら叫んだ。
赤黒いエネルギーが地下通路の天井を崩落させ始め、巨大なコンクリートの瓦礫がドサドサと落ちてくる。もはやこの地下空間自体が持ちこたえられない限界を迎えていた。
「真名くん! もう限界よ、逃げるわよ!!」
クロエが崩れ落ちる瓦礫を避けながら、依真の腕を強引に引っ張る。
「待て……! 鷗賀を……鷗賀を置いていけるか!!」
「今近づいたら、あなたも彼女も完全に消滅するわ! 彼女のコアが自我と暴走の間で引き裂かれてる……一度距離を取って、コアの過熱が収まる瞬間を狙うしかないの!」
「いつま……行って……!」
炎の向こう側で、鷗賀は涙を流しながら微笑んだ。
その笑顔は、かつて二人で穏やかな日々を過ごしていた頃の、あの優しい少女の笑顔そのものだった。
「私……いつまに会えて……よかったよ」
「鷗賀ぁぁぁぁぁぁっ!!」
ドカァァァァン——!!
二人を隔てるように、巨大な天井の崩落が起き、炎と土砂の壁が視界を遮った。
依真はクロエに抱えられながら、暗闇の奥へと連れ去られていく。
背後に残されたのは、崩落の轟音と、少女の切ないすすり泣き、そして赤黒く燃え上がる終焉の光だけだった——。




