漆黒の浸食と侵蝕する愛
崩落の轟音が地下洞窟の奥底で鈍く響き渡り、やがて途絶えた。
鉄の扉の向こう側から届いていたはずの依真の足音も、今や完全に途切れている。
静寂——。
静寂を切り裂くのは、過熱したコアが発する不快な高周波のノイズと、自らの首筋から床へ滴り落ちる血の音だけだった。
「……いつま……」
暗闇の中にぽつりと取り残された鷗賀は、自身の右手をゆっくりと持ち上げた。
指先には、先ほど依真の頬に触れた時に付着した、温かい朱色の生血がべったりとついている。
彼女はその血のついた指を、恍惚とした表情でゆっくりと舐めとった。
鉄の味が口内に広がる。不快感など微塵もなかった。それどころか、胸の奥底で渦巻く黒い情念が、その味覚によってさらに激しく揺さぶられていくのを感じていた。
「美味しいよ……いつま。これが、あなたの『温度』なんだね……」
頬をぶたれた場所の痛み。
首筋を裂かれた痛打の残り香。
そして、見捨てられたという胸を刺すような絶望。
以前の人形としてのプログラムであれば、これらはすべて『損傷率の増加』や『タスク失敗によるシステム異常』として処理されていたはずだった。だが、今の彼女にとってそれらは全く違う意味を持っていた。
これこそが、彼女が熱望し、依真が彼女に与えてしまった『心』そのものだった。
「私を置き去りにして……あの女の手を引いて逃げるなんて……ひどい人」
鷗賀はくすくすと低く笑い始めた。その声は地下の暗闇に反響し、幾重にも重なって歪んだ旋律を描く。
「でも、いいの。分かってるよ。いつまは照れ屋さんだから……私があまりにも『人間』になりすぎたから、怖くなっちゃったんだよね?」
彼女の瞳から光が完全に消えていた。
黒い深淵のような瞳の奧で、コアの変質した赤黒い光だけが不気味に揺らめいている。
「大丈夫……どこへ逃げても無駄だよ。だって……私といつまは、もう切り離せないんだから」
言葉と同時に、彼女の背後に鎮座する巨体——制御を失い暴走を続ける『始祖コア』が、不気味な赤黒い波動を放出した。
『警告:システム同調率、限界突破。個体名『鷗賀』への権限譲渡を検出』
壊れた端末のスピーカーから、機械的な合成音声が途切れ途切れに流れる。
クロエが操作していたクリスタル盤は粉々になり、本来の安全制御装置は完全に死んでいた。しかし、その壊れたシステムが提示したのは、皮肉にも『コアの完全な乗っ取り』だった。
人間としての激しい情念——『狂愛』という名のバグが、コアの制御ロジックを上書きしていく。
「初期化なんて……させない。消去なんて……させない……!」
鷗賀はゆらりと立ち上がり、赤黒く明滅するコアの結晶体へと一歩ずつ歩み寄った。
結晶体から漏れ出す超高熱のエネルギーが彼女の皮膚を焼き、衣類を焦がす。だが、痛みに顔を歪めるどころか、彼女は愛おしそうにその破滅の光へ両手を伸ばした。
「私から『心』を奪おうとする奴らは……世界だって、あの女だって……全部私が壊してあげる」
バリバリッ——!!
激しい紫電が鷗賀の体を駆け巡った。
人形の超高度な骨格構造と、暴走するコアの膨大なエネルギーが直結する。彼女の全身の擬似血管に赤黒い光が脈打ち、背中からは物質化した高密度のエネルギーの「翅」のような光芒が立ち上った。
「ぐ……あ……ぁぁぁぁぁっ!!」
絶叫が地下空間を震わせる。
だが、その叫びは苦痛によるものではない。人間としての欲望が、人形の身体を再構築していく快楽の絶叫だった。
「いつま……見ててね。私、もっと『人間』になるよ。あなたを絶対に逃がさない、完璧な……愛の悪魔に……!」
ドーーン!!
絶大な衝撃波が地下空間を破砕した。
巨岩が次々と粉砕され、地上へと続く厚い岩盤に大きな亀裂が走り抜ける。
一方、地上へと続く地下通路——。
「ハッ……ハッ……っ!!」
依真は、肩に担いだ失神中のクロエの重みに耐えかね、崩れかけた階段の途中で膝をついた。
荒い息を吐き出しながら、後ろを振り返る。
鉄の扉は崩落した土砂で完全に塞がれており、向こう側の様子は窺えない。
しかし、足元から伝わってくる不気味な振動と、空気の重苦しさが告げていた。
決着などついていない。
それどころか、最悪のバケモノを地下に閉じ込めただけなのだと。
「……くそっ……!」
依真は己の手を見つめた。
指先が微かに震えている。
(あの目は……なんだ……?)
かつて自分の命令に忠実で、感情を持たず、ただ静かに微笑んでいた精巧な人形。
それがなぜ、あそこまでの殺意と執着を孕んだ「バグ」を起こしたのか。
『首を絞められると、苦しくて……頭が真っ白になるよね? 私ね、いつまに頬を叩かれた時、胸がそんな風に苦しかったの』
脳裏にリフレインする鷗賀の狂気に満ちた言葉。
(俺が……俺があいつに『心』を与えたからだと……? ふざけるな……! 人形は人形だ! プログラムされた通りに動き、不要になれば廃棄される……ただの物質だ……!)
そう自分に言い聞かせようとするが、胸のざわつきは収まらない。
叩いた時の感触。首を締め上げられた時の、人間以上の必死な力。
あれは間違いなく、自分に対して向けられた「歪んだ情念」だった。
「……ん……真名……くん……?」
肩で息を吐いていたクロエが、薄っすらと目を開けた。
腹部を蹴られた衝撃で顔色は蒼白であり、呼吸をするたびに苦しそうに苦悶の表情を浮かべている。
「クロエ! 気がついたか!?」
「……っ……コアは……? あのノイズの少女は……!?」
「地下に閉じ込めた。コアは暴走を始めている……早くここを脱出しないと、施設全体が吹き飛ぶ!」
「ダメよ……!」
クロエは痛みに耐えながら、依真の胸元を強く掴んだ。
「あのコアが暴走したら……ただの爆発じゃ済まないわ! 同調していたあの人形の『自我』が地上のネットワークに流出すれば……都市全体の制御AIが感染する! 彼女の歪んだ自我が……世界中に拡散されるのよ!?」
「なんだと……!?」
依真の顔から血の気が引いた。
人形一体の暴走にとどまらず、世界規模のシステム破壊へと繋がる——。
それこそが、クロエたちの組織が最も恐れていた『人工自我のパンデミック』だった。
その時——。
ズガガガガガガッ——!!!!
二人がいる地下通路の床が、激しい地鳴りとともに大きく跳ね上がった。
「なっ……何事だ!?」
「来……来るわ……! 下から……恐ろしい密度のエネルギーが上がってくる……!」
クロエが恐怖に目を見開く。
階段の最下層、塞がれていたはずの鉄の扉と巨大な土砂の山が、内側から『溶融』し始めていた。
赤黒い高熱のエネルギーが岩石をドロドロのマグマに変え、爆風とともに吹き飛ぶ。
その炎と煙の渦の中から、ゆったりとした足取りで一人の少女が姿を現した。
「見ーつけ……た」
背中に赤黒い光芒の翅を纏い、全身から圧倒的な破壊の圧力を撒き散らす鷗賀。
その頬には流れた血が固まり、まるで赤い涙を流しているかのように見えた。
「いつま……逃げちゃダメだよ? だって、私達は……運命の糸で結ばれてるんだから」
鷗賀がそっと手を差し伸べると、周囲のコンクリート壁が過熱によって一瞬で赤く染まり、ひび割れていく。
「さあ……お話を続けよう? 私達の……終わらない愛の物語を」
逃げ場のない一本道の地下通路。
狂気を纏った「最凶の人間」と化した人形が、冷たい笑顔を浮かべて追い詰めてくる——。




