拒絶の冷雨と黒化の芽生え
夜の闇を裂いて鳴り響く雷鳴が、校舎の窓ガラスを激しく震わせた。豪雨がグラウンドを叩きつけ、水たまりに無数の波紋を描いている。
(いつま……いつま……どこにいるの……?)
鷗賀は雨に濡れるのも構わず、校舎の地下へと続く階段の前に立っていた。首筋の傷口からは未だにじくじくと血が滲み、雨水と混ざり合って体操服の襟を赤く染めている。自ら爪を立てて傷つけた痛みが、彼女の麻痺した意識をかろうじて現実に繋ぎ止めていた。
「入ってはいけない場所……でも、いつまがそこにいるなら……」
ギシ……ギシ……。
鉄製の重い扉を押し開けると、そこはカビ臭い湿気と、異様な高周波の機械音が満ちる空間だった。普段は立ち入り禁止となっている旧校舎の地下保管庫。しかし、いま彼女の目の前に広がっていたのは、学校の施設とは思えないほど巨大な、青白い発光体に包まれた地下空洞だった。
「ひっ……!?」
息を呑む鷗賀。その中心に、依真とクロエが立っていた。
ふたりの頭上には、脈打つ心臓のように明滅する巨大な結晶体——「コア」が浮遊している。その周囲に渦巻く冷気と粒子が、周囲の空間を歪めていた。
「遅いぞ、クロエ。同調率の計算がずれている」
「仕方ないでしょう。地上であなたにまとわりついていた『未完成品』のノイズが邪魔だったのよ」
クロエは冷ややかな声で応じながら、クリスタル盤のような端末を操作している。そのやり取りは、まるで長年連れ添った研究パートナーのように息が合っていた。
鷗賀の胸が、激痛で引き裂かれそうになる。
(私……ノイズ……? 邪魔……?)
朝、部室で自分を押し倒し、荒々しい呼気とともに首筋を噛みちぎったあの熱狂。あの時、依真の瞳に映っていたのは間違いなく自分だったはずだ。それなのに、いま目の前にいる依真は、クロエと二人だけの領域に没頭し、自分という存在など最初から存在しなかったかのように振る舞っている。
「いつま……っ!!」
耐えきれず、鷗賀は叫びながら地下空洞へと飛び出した。
「いつま! どうして……どうして私を捨てるの!? 私、あなたの言う通りにしたよ!? 痛くても我慢したよ! あなたの『印』をずっと抱きしめてたのに……っ!」
激しい足音が静寂を破る。
依真とクロエが同時に振り返った。クロエの瞳には呆れと蔑みが浮かび、依真の顔には——底知れない「鬱陶しさ」が影を落とした。
「……しつこい女だな」
依真が放った一言は、氷の刃となって鷗賀の胸を深々と貫いた。
「言ったはずだ、鷗賀。お前が人間になろうが、どれほど俺の刻印を誇ろうが、それはただの物理的な変異に過ぎない。俺の目的はこの『コア』を回収し、人形製造のシステムそのものを初期化することだ」
「初期化……? それって……どういうこと……?」
「忘れるということだ」クロエが冷たく微笑みながら言葉を挟む。「あなたが人間として獲得した感情も、真名くんにつけられたその汚らしい痕も、コアが起動すれば全て消去される。あなたはただの『動かない人形』に戻るのよ」
「そんな……嘘だ……! 嫌だ……! 忘れたくない! いつまの痛みを、いつまの手の温もりを消されるなんて嫌!!」
鷗賀はなりふり構わず依真へ駆け寄り、その胸に飛び込もうとした。
「邪魔をするな」
パンッ——!!
静寂な地下空間に、乾いた打撃音が響き渡った。
依真の右腕が容赦なく振るわれ、鷗賀の頬を強く張り飛ばしたのだ。
「きゃあっ……!?」
激しい衝撃とともに、鷗賀の華奢な体が冷たいコンクリートの床へと弾き飛んだ。口内が切れ、鉄の味が口いっぱいに広がる。床に叩きつけられた衝撃で、膝と肘からじんわりと血が滲み出した。
「いつ……ま……?」
見上げる視線の先。依真は自身の右手を冷たい目で見つめ、胸ポケットから取り出したハンカチで、まるで汚物に触れたかのように入念に掌を拭っていた。
「俺の領域に踏み込むなと言ったはずだ。お前のような『感情を持った不完全体』に関わっている時間はない」
依真の瞳には、一切の情すら残っていなかった。朝の狂熱も、支配欲も、すべてはただの暇つぶしか、あるいは実験の一環に過ぎなかったと言わんばかりの無機質な眼差し。
「真名くん、コアの同調率が90%を超えたわ。余計なノイズは排除して」
クロエが促すと、依真は冷酷に背を向けた。
「終わりだ、鷗賀」
「嫌……嫌……っ! 置いていかないで……! 私を置いていかないで……いつまぁぁぁっ!!」
床に這いつくばりながら手を伸ばす鷗賀。だが、依真の足取りが止まることはなかった。彼の背中が、青白いコアの光の中に呑み込まれていく。
絶望。
それが、鷗賀の全身を支配した。
冷たい床に突っ伏したまま、彼女はボロボロと涙をこぼした。首筋の噛み痕、頬の腫れ、擦りむいた肘の痛み。そのすべてが、依真に拒絶されたという残酷な事実を突きつけてくる。
(壊れた……。私の世界が、全部壊れた……)
人間になったから、痛みがわかるようになった。
人間になったから、愛されたいと願うようになった。
人間になったから——こんなにも、胸が苦しくて死にそうになる。
「こんなことなら……人形のままの方がよかった……?」
ふと、彼女の脳裏に暗い問いが浮かぶ。
感情なんて知らなければ、拒絶される恐怖も知らなかった。依真の冷たい指先に触れられるだけで満足していたあの頃。
(……いいえ。違う)
鷗賀の体内で、何かがカチリと音を立てて噛み合わさった。
(私は……もう人形じゃない。血が流れて、痛みに震える『人間』なんだ)
涙が途絶えた。
彼女の瞳から光が消え、代わりに底知れぬ黒い執着の炎が揺らめき始める。
(いつまが私を捨てようとするなら……私を初期化して、ただの人形に戻そうとするなら……)
ゆっくりと、機械のように無機質な動作で立ち上がる鷗賀。
膝の血を拭いもせず、彼女は首筋の噛み痕を自らの指で強く押し潰した。激痛が脳を焼き焦がすが、その痛みこそが、彼女が「依真のもの」であるという唯一の証拠だった。
(消させない。この痛みも、思い出も、いつまの存在も……全部、私だけのものだ)
「フフ……あはは……っ」
薄暗い地下室に、歪んだ笑い声が漏れる。
「いつま……あなたが私を『道具』として捨てるなら……私はあなたを『私のもの』にするために、その手足を切り落としてでも閉じ込めてあげる……」
少女の愛は、狂気という名の不可逆な変容を遂げた。
コアが放つ青白い光線の中で、黒化を果たした鷗賀が一歩、また一歩と依真の背中へと歩みを進める——。




