夕闇の来訪者と歪む執着
部室の鍵がカチャリと開く音がした時、朝の眩しい日光がドアの隙間から細い筋となって差し込み、床の埃をキラキラと浮かび上がらせた。
「……ん……っ」
鷗賀は荒い息を吐き出しながら、ゆっくりと体操服の襟元を整えた。首筋から鎖骨にかけて走る激しい熱感と、皮膚の裏側に残るジクジクとした鈍痛。しかし、それ以上に彼女の胸を焦がしていたのは、依真の手によって全身を苛烈に支配されたという、甘く痺れるような多幸感だった。
「立てるか」
依真は何事もなかったかのように身だしなみを整え、黒髪を軽く手ぐしで整えながら冷ややかに見下ろす。その瞳には、先ほどまで彼女の肌に歯を立て、欲望を叩き込んでいた荒々しい狂気の欠片もうかがえない。いつもの、冷静沈着で他者を寄せ付けない「真名依真」に戻っていた。
「うん……っ、立てる……よ……っ」
鷗賀は壁に手をつき、ガクガクと震える膝に力を込めて立ち上がった。ショートパンツから伸びる細い脚が、情けないほどに力が入らない。
「ふん。朝練のトラック周回、遅れるなよ。お前が陸上部でどんな無様な走りを見せようと構わないが、俺の刻印を背負っていることだけは忘れるな」
「わかってる……っ、いつま……。私、走ってくるね……!」
ドアを開けて外へ出ると、初夏の爽やかな風が鷗賀の熱照る頬を撫でた。グラウンドでは、すでに部員たちがウォーミングアップを始めている。
先ほど通学路で依真に威嚇された男子部員が、遠くから恐る恐る鷗賀の様子を伺っていた。周囲の生徒たちの視線も、どこか好奇と畏怖が混ざり合った不穏なものへと変わっている。
(みんな……私のことを見ている……。いつまが私を『自分のもの』だって宣言したから……)
鷗賀は胸元に手を当て、制服の代わりに着た体操服越しに、皮膚に残る強烈な噛み痕を確かめた。背筋をゾクゾクと駆け上がるスリル。人間としての恥じらいと、人形としての快感が、彼女の理性をどこまでも狂わせていく。
「藍庭! なにぼーっとしてるんだ、ウォームアップ入るぞ!」
「あ……はい! すぐ行きます!」
トラックに踏み出した一歩。踏み込むたびに首筋の傷が引っ張られ、ズキリと痛む。その痛みが、何よりも愛おしい「いつまの存在」を彼女に思い出させていた。
放課後、夕陽が校舎を真っ赤に染め上げる時間帯。
鷗賀は陸上部の練習を終え、汗をぬぐいながら部室へ戻ってきた。ハイジャンプの練習で何度もマットに倒れ込んだ体は悲鳴を上げていたが、心は不思議と軽やかだった。
しかし、部室の前にたどり着いた瞬間、その足がぴたりと止まった。
部室のドアの前に、見覚えのない一人の少女が立っていたのだ。整った容姿に、どこか浮世離れした静けさを纏った風貌。その少女は、部室の陰で待っていた依真と向き合い、静かに言葉を交わしていた。
(あの人……だれ……?)
鷗賀の胸の奥で、冷たい嫌な汗が吹き出した。
これまで依真の視界に映る「女性」は、自分だけだったはずだ。人間になった自分を拒絶し、支配し、痛みを刻み込むのは依真だけであり、自分もまた依真以外の男など目に入らなかった。それなのに——
「……真名くん。あなたが探している『コア』の反応が、この近くで強くなっているわ」
少女の澄んだ声が、静かな放課後の廊下に響く。
「そうか。やはりこの学校の地下か」
依真の返答は、短く冷酷だった。その表情には、鷗賀に見せるような狂気的な執着も、冷徹な支配欲もなく、ただ純粋な「目的」だけを見つめる冷たい目が宿っていた。
(コア……? 地下……? なんの話……?)
鷗賀の手から、持っていた部活用のタオルがハラリと落ちた。
その音に反応して、依真と少女が同時に振り返る。
「……鷗賀か」
依真の口から漏れた自分の名前。しかし、その声には朝のような熱量が一切感じられなかった。まるで、用済みの道具を見るかのような、元通りの無機質な瞳。
「いつま……その人、だれ……? どうして、そんな話……」
鷗賀が震える声で尋ねると、見知らぬ少女は冷たい眼差しで鷗賀の首筋——体操服の襟から覗く赤紫色の噛み痕を一瞥し、薄く嘲笑うように唇を歪めた。
「あら……それが例の『人間になった人形』?随分と汚らしい痕をつけられているのね。真名くん、こんな未完成な個体に執着している暇はあるの?」
「……お前が口を挟むことではない、クロエ」
依真は冷ややかに少女——クロエを制したが、鷗賀の方へ歩み寄ろうとはしなかった。
「いつま……ねえ、いつま……っ! 私を見て……っ! 私はいつまの人形だよ……!? いつまが私に刻んでくれたんでしょう……っ!?」
狂おしいほどの焦燥感が鷗賀を襲う。彼女は半ばパニックになりながら依真の袖を掴もうと手を伸ばした。
しかし——
「触るなと言ったはずだ、汗くさい」
依真の手が、冷酷に鷗賀の腕を振り払った。
「あ……っ……」
床に崩れ落ちる鷗賀。依真の冷たい視線が、上から彼女を射抜く。
「勘違いするなと言っただろう。お前が人間になろうが、どれだけ俺の印を刻もうが、お前はただの足枷に過ぎない。俺の目的は最初から変わっていない」
依真は一度も振り返ることなく、クロエと共に廊下の闇へと歩き出した。
「いつまーーーーーっ!!」
夕闇が迫る校舎に、鷗賀の絶望に満ちた叫び声が虚しく響き渡った。
夜の自室。明かりもつけない暗闇の中で、鷗賀はベッドの上に膝を抱えて丸まっていた。
首筋の噛み痕は、いまも熱を持って疼いている。朝生まれていたあの愛おしい痛みが、いまは自分を極限まで惨めにする毒のように全身を蝕んでいた。
(嘘だ……嘘だと言ってよ、いつま……)
依真の冷たい眼差し、振り払われた腕の感触、知識にない「コア」、そして「クロエ」と呼ばれた少女の嘲笑。
自分は依真に愛されているのだと、彼に完全に支配されているのだと思い込んでいた。しかし、彼の本当の目的——学校の地下に眠る謎。
「私は……いつまの何なの……? 人形なの……? 人間なの……? それとも……ただの『失敗作』……?」
鏡を見る。暗闇の中で浮き上がる自分の首筋の痕。
依真が自分につけた「所有権の証」。それすらも、彼にとってはただの氣まぐれだったのだろうか。
「嫌……嫌だ……! 捨てないで……私を置いていかないで……っ!」
涙が頬を伝い、首の傷口に沁みて激痛が走る。
鷗賀は自分の爪を首筋に立て、依真がつけた噛み痕を自ら強く掻きむしった。血が滲み出し、痛みが脳を麻痺させていく。
「痛い……痛いよ……いつま……。私をもっと見て……私だけを……っ!」
暗闇の中で、彼女の瞳に怪しい光が宿り始める。
ただ従順な人形として愛されるのを待つ時代は終わった。彼が自分を捨てようとするのなら、彼の手を、足を、そして心そのものを壊してでも、自分に繋ぎ止めなければならない。
「いつま……逃がさないよ……。私は、あなたの『人間』なんだから……」
狂気と執着に染まった少女の呟きが、静かな部屋の中にどこまでも深く溶けていった。




