夏祭りと、浴衣姿のずるい君
終業式が終わり、待ちに挑戦した長い夏休みが始まった。
連日のように猛暑日が続く中、藍庭鷗賀は相変わらず陸上部の厳しい夏合宿や午前練習に追われ、俺は約束通り、部活がない日の午後に彼女の部屋か俺の部屋で勉強を教える日々を送っていた。
部屋という密室での距離感は、あの雨宿りの日を境に、どこか甘い緊張感を孕むようになっていた。
鷗賀は時折、ノートを解く手を止めては、俺の横顔をじっと盗み見るようになった。俺が「どこ見てんだよ」と視線を返すと、彼女は「べ、別に! シャープの芯が出ないなーって思っただけ!」と、耳まで真っ赤にして慌ててノートに顔を伏せる。
彼女の防衛線は、もうボロボロだった。
そして、夏休みの中盤。
俺たちの地元で、毎年恒例の大きな花火大会が開催される夜がやってきた。
「いつまー! お待たせ!」
神社の境内の入り口、大きな鳥居の前に立っていた俺の元に、パタパタと小走りで近づいてくる下駄の音が響いた。
振り返った瞬間、俺は危うく息をするのを忘れるところだった。
「……おうか」
「じゃーん! どうかな? お母さんに無理言って、新しい浴衣着せてもらったんだ!」
そこにいたのは、いつもの着崩したセーラー服でも、汗の染みた陸上部のジャージ姿でもない、見違えるほどに可憐な一人の少女だった。
深い紺地に、鮮やかな朝顔の模様が描かれた浴衣。いつもは元気いっぱいに揺れているポニーテールは、今日は上品なアップスタイルにまとめられ、うなじの白い肌が夕闇の中で眩しいほどに浮き出ている。
ほんのりと薄化粧をした彼女の唇は、いつもの何倍も艶やかだった。
「な、何だよ、黙り込んじゃって……。変、かな? やっぱり私には、こういうの似合わない?」
俺の視線に耐えかねたのか、鷗賀は照れくさそうに浴衣の袂をぎゅっと握りしめ、上目遣いで俺の顔を覗き込んできた。
「……いや。ずるいくらいに似合ってる。可愛すぎて、他の奴に見せたくないレベルだ」
「なっ、何言ってるのバカいつまっ……!!」
直球すぎる俺の言葉に、鷗賀は一瞬で顔を真っ赤に染め、巾着袋で俺の胸元をポカポカと叩いてきた。その反応すらも、今の彼女にとっては照れ隠しの限界なのだろう。
境内に入ると、すれ違う男たちの視線が、次々と鷗賀の浴衣姿へと注がれるのが分かった。
胸の奥で、ドス黒い独占欲が鎌首をもたげる。
――こいつは俺の幼馴染だ。お前らが見ていい奴じゃない。
「ほら、はぐれるからこっち来い」
俺は彼女の言葉を待たずに、その小さくて柔らかい手を、自分の大きな手でぎゅっと包み込んだ。
「――っ!?」
鷗賀の身体がビクッと跳ね上がった。
「い、いつま?手、繋ぐの……?」
「当たり前だろ。これだけ人が多いんだ、お前みたいな迷子体質、一瞬でいなくなる。……嫌か?」
俺は足を止めず、少し意地悪に彼女の顔を見つめた。
「嫌、じゃない、けど……。でも、前は、服の袖とか、スクバの紐を持たせてくれたじゃん……」
「前は前。今は、ちゃんと手首じゃなくて、手を繋ぎたい気分なんだよ」
俺は繋いだ手の指を滑らせ、彼女の指の間に自分の指を滑り込ませた。
いわゆる、恋人繋ぎ。
鷗賀の手のひらから、ドクドクと激しい脈動が伝わってくる。彼女は顔を伏せたまま、けれど俺の手を振り払うことはせず、逆にキュッと小さな力で握り返してきた。
屋台の明かりが二人の顔を照らす中、俺たちはリンゴ飴を買ったり、金魚すくいを眺めたりして、少しずついつもの軽口を取り戻していった。
だけど、繋いだ手だけは、決して離さなかった。お互いの手のひらが、汗ばむほどに熱くなっているのに、どちらからも「離そう」とは言わなかった。
やがて、花火の打ち上げ開始の時間が近づき、俺たちは混雑する境内を離れ、小高くなっている神社の裏山へと続く階段を上った。ここは、地元の人しか知らない、花火が綺麗に見える秘密の穴場スポットだ。
「はぁ、結構上るね……。あいたた……」
階段の途中で、鷗賀が突然顔を顰めて足を止めた。
「どうした、おうか。足、痛むのか?」
「うん……。新しい下駄、やっぱり鼻緒のところが擦れて痛くなっちゃった……」
彼女は片足を浮かせ、辛そうに眉を寄せた。陸上部のエースといえど、慣れない下駄での歩行には勝てなかったらしい。
小中学生の頃の俺なら、迷わず「しょうがねえな」と言って、彼女の前に背中を差し出して、おんぶしてやっただろう。それが『優しいお兄ちゃん』の正解だった。
だけど、今の俺は違った。
「そこ、座れ」
俺は階段の隅にある、少し平らな石の段を指差した。
「え?でも、浴衣が汚れちゃうよ?」
「俺のハンカチ敷くから。ほら、座って」
鷗賀をそこに座らせると、俺は彼女の目の前で片膝をつき、目線を下げた。
そして、躊躇わずに彼女の白くて細い足首を、自分の手でそっと掴んだ。
「――っ!?いつま、何っ、何して……!?」
「動くな。傷口見るだけだ」
掴んだ足首から、彼女の驚きと緊張がダイレクトに伝わってくる。
下駄を優しく脱がせると、親指と人差し指の間の皮が、赤く擦れて少し血がにじんでいた。
俺はスクバから、あらかじめ用意していた防水のOK蹦(救急バン)を取り出し、丁寧にその傷口へと貼り付けた。その間、俺の指先が、彼女の柔らかい足の甲や足首に幾度となく触れる。
「いつま……恥ずかしいよ……、もういいから……」
鷗賀は顔を両手で覆い隠し、蚊の鳴くような声で懇願してきた。
おんぶされるよりも、こうして足元に跪かれ、男の手で直接触れられる方が、何倍も『異性』を意識させられることに、彼女は耐えかねているようだった。
「よし、これで大丈夫だ。……でも、もう下駄は履かない方がいいな」
俺は立ち上がり、自分のローファーを脱いだ。
「え?いつま、何するの?」
「俺の靴、履きな。お前には少し大きいけど、下駄よりはマシだろ」
「ええっ!?じゃあ、いつまはどうするの!?」
「俺は靴下があるし、お前の下駄を持って歩く。ほら、足出しな」
「だ、ダメだよ!いつまの足が痛くなっちゃう!」
「お前が夏休みの残りの練習、足の怪我で休む方が嫌だ。……それとも、俺におんぶされたい?」
俺が少し低い声で囁きながら顔を近づけると、鷗賀は「っ……」と言葉を詰まらせ、大人しく俺のローファーに足を突っ込んだ。ぶかぶかの靴を履いた彼女の姿は、なんだか小さな子供のようで、たまらなく愛おしかった。
ドンッ、と地響きのような音がして、夜空が鮮やかな大輪の赤に染まった。
花火が始まったのだ。
裏山の頂上に着くと、夜空いっぱいに広がる光の粒子が、俺たちの頭上から降り注ぐように輝いていた。
激しい爆音と、きらびやかな光。
周囲の喧騒が遠のく中、俺は花火ではなく、その光に照らされた鷗賀の側顔を見つめていた。
彼女の瞳の中に、幾千もの光が映り込んで、きらきらと明滅している。その美しさに、俺の心臓は花火の音よりも激しく鳴り響いていた。
「……いつま」
鷗賀が、花火を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「私ね……いつまのことが、本当に分かんなくなっちゃった」
「何が?」
「一昨日の勉強会も、今日のことも……。いつまが優しくて、でも、すっごく強引で。私の知らない男の人の顔をするから……胸の奥が、ずっと苦しいの」
彼女は自分の胸元をぎゅっと握りしめ、ゆっくりと俺の方を振り返った。
光と影が交錯する中、彼女の大きな瞳から、一筋の涙が静かに頬を伝い落ちた。
「いつまが遠くに行っちゃいそうで、怖いよ。……私から、ただの幼馴染を奪わないで……」
それは、彼女の最後の、そして最も切ない抵抗だった。
自分が心動かされていることを認めながらも、関係が変わることを恐れる、臆病な青梅竹馬。
俺は彼女の涙を、親指の腹でそっと拭った。
そして、彼女の耳元に顔を寄せ、花火の爆音に負けないくらい真っ直ぐに、俺の全ての想いを叩きつけた。
「奪わないよ。俺はお前の前から消えたりしない」
「でも……っ」
「ただの幼馴染はもう終わりだ。俺がお前を、ただの幼馴染じゃいられなくしてやる。……覚悟しとけよ、おうか」
ヒュルルル、と細い音が夜空へ上り、次の瞬間、世界が真っ白になるほどの大きな金色のしだれ柳が弾けた。
その光の中で、鷗賀は目を見開いたまま、俺の胸元の浴衣をぎゅっと掴んで離さなかった。
彼女の『安全圏』は、今夜の打ち上げ花火と共に、完全に、木端微塵に吹き飛んだのだ。
俺は彼女の小さな肩をそっと抱き寄せ、夜空に咲き乱れる最後の花火を、今度こそ二人で並んで見上げ続けた。




