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夕立の悪戯と、濡れたセーラー服

グラウンドでの騒ぎから数日後。期末テストの成績が返却され、藍庭鷗賀あいにわ おうかは依真のスパルタ指導の甲斐あって、なんとか赤点を回避することができた。

「ほら見たことか! 私はやればできる子なんだよ!」と、職員室の前で答案用紙を掲げて大喜びしていた彼女の姿が目に浮かぶ。


そんな騒がしい日常を締めくくるように、終業式を目前に控えた放課後、空の機嫌は急激に傾き出していた。


ゴロゴロ、と遠くで不穏な雷鳴が響く。

さっきまでカンカン照りだった青空は、またたく間に重苦しい灰色の雨雲に覆い尽くされていった。


「うわ、最悪! 一気に降ってきた!」


下校途中、駅までの坂道を歩いていた俺と鷗賀は、突然バチバチと音を立てて降り注いだ大粒の雨に襲われた。日本の初夏特有の、激しい夕立ゆうだちだ。


「おうか、こっちだ! 走れ!」

「きゃあ、待ってよいつま!」


俺は鷗賀の手首を掴み、近くにある古い商店街のアーケードの隅、閉まったシャッターの軒下へと滑り込んだ。

間一髪、頭上の小さな屋根が激しい雨を遮ってくれたが、それでも突然の豪雨に対応しきれず、俺たちは二人ともずぶ濡れになっていた。


「冷たっ……。ねえ、バケツをひっくり返したみたいだよ、これ」


鷗賀はポニーテールをほどき、濡れた黒髪を手で絞りながら、シャッターの外の真っ白な雨の世界を見つめていた。

着崩したセーラー服の白い生地が、雨水を吸って肌にぴったりと張り付いている。

透けている。

彼女の華奢な肩のラインや、その下にある下着の輪郭が、生々しいほどに俺の視界に飛び込んできた。


「……っ」


俺は咄嗟に視線を外した。

喉の奥が、妙にカラカラに渇くのを感じる。雨の冷たさとは裏腹に、俺の身体の芯からじわじわと熱いものが込み上げてきた。


「あーあ、スカートもびしょびしょ。いつま、タオルとか持ってな……あれ? いつま、どうしたの? こっち向いてよ」


自分の状態に全く気づいていない無防備な幼馴染は、怪訝そうに俺の顔を覗き込んできた。


「……お前、少しは警戒心を持て」

「へ? 何が?」

「何が、じゃない。服、透けてんだよ、バカ」


俺は自分のスクバから、辛うじて濡れずに済んでいた部活用の大きめのスポーツタオルを引っ張り出し、彼女の頭から乱暴に被せた。


「ひゃんっ!? ちょっと、前見えないってば!」

「いいからそのまま身体を隠せ。……男の目を引くような格好でうろつくな」


タオルの中から這い出てきた鷗賀は、俺の言葉の意味を理解した瞬間、自分の胸元を両手で隠して一歩後ろに下がった。

シャッターの壁に、彼女の背中が小さく当たる。

軒下の狭いスペース。雨を避けるために、俺たちの距離は必然的に、あの日の勉強会と同じくらい近づいていた。


「あ……。ご、ごめん……」

鷗賀の顔が、じわじわと赤くなっていく。

「でも、いつまだって……その、結構濡れてるよ」


彼女の視線が、俺の首元から胸元へと注がれる。

俺の制服のワイシャツも、雨のせいで肌に張り付いていた。部活で鍛えているわけではないが、それなりに引き締まった体躯が浮き出ている。

鷗賀はそれを見て、ゴクリと唾を呑み込んだ。その瞳が、いつかの『ただの家族』を見る目ではないことに、俺はすぐに気づいた。


「一昨日さ……グラウンドで一ノ瀬さんと何話してたの?」


雨の激しい音が周囲を包み込む中、鷗賀がポツリと、小さな声で問いかけてきた。

タオルの端をぎゅっと握りしめ、上目遣いで俺を見つめるその表情には、まだあの時の嫉妬の残り香が漂っている。


「言っただろ。勉強を教えてほしいって頼まれただけだ」

「ふーん……。断ったんだよね?」

「あぁ。俺には、もう教える相手がいるからな。赤点ギリギリの、手のかかる幼馴染が」


俺が少しからかうように言うと、鷗賀はぷいっと拗ねたように横を向いた。

「手がかかって悪かったね。でも……一ノ瀬さん、可愛かったじゃん。お人形さんみたいで、守ってあげたくなる感じで」


「お前の方が可愛いよ」


ザーザーと降る雨の音に負けないように、だけど静かに、俺は言った。


「――えっ?」

鷗賀が弾かれたようにこちらを振り返る。


「だから、お前の方が何倍も可愛いって言ったんだ。他の誰が来ようが、俺の目は最初からお前しか見てない」

「いつ、ま……何言ってるの、急に……」

「急じゃない。ずっと言ってるだろ。俺はお前を男として落としにいくって」


俺は一歩、彼女との距離をゼロにするように踏み込んだ。

雨の雫が、俺の髪から彼女の頬へと滴り落ちる。

逃げ場のない軒下。鷗賀はタオルの下で、激しく胸を上下させていた。彼女の呼吸が、俺の鎖骨のあたりに熱く吹きかかる。


「いつま、ダメだよ……ここ、外だし……誰かに見られたら……」

「雨の音が大きすぎて、誰も見てないし聞こえないよ。なぁ、おうか」


俺は彼女の濡れた頬に、そっと右手を添えた。

ひんやりとした肌の奥で、彼女の血が熱く脈打っているのが伝わってくる。

鷗賀は拒絶しなかった。身体を強張らせながらも、俺の手のひらの熱を受け入れるように、じっと俺を見つめ返している。


「一ノ瀬さんに嫉妬するくらいなら、早く俺のものになればいいのに」

「私は……嫉妬なんて……」

「嘘つけ。あの時、ジャグをひっくり返しそうな勢いで突っ込んできたくせに」


「う……。それは、その……」

言い訳を探そうと、鷗賀の唇が小さく動く。その唇が、雨に濡れて、妙に艶やかに光っていた。


理性のタガが外れそうになるのを、俺は必死に抑え込んだ。

今ここで強引にキスを奪うこともできる。だけど、それじゃあ彼女を怖がらせて終わるだけだ。俺が欲しいのは、彼女が自ら俺の胸に飛び込んでくる、その瞬間なのだから。


俺は添えていた手をゆっくりと離し、彼女の頭をタオルの上から優しく撫でた。


「……雨、少し小降りになってきたな」

「え……?あ、うん……そうだね」


我に返ったように、鷗賀が大きく息を吐き出した。その顔は、湯気が立ちそうなくらい真っ赤だった。

空を見上げると、いつの間にか激しかった豪雨は、静かな霧雨へと変わっていた。雲の切れ間から、夕方の淡い光が差し込み、濡れたアスファルトをきらきらと輝かせている。


「帰るか。風邪ひくぞ」

「……うん」


アーケードの軒下から一歩外へ踏み出す。

歩き出した俺の後ろを、鷗賀はタオルのなかにすっぽりと収まったまま、小さな足取りでついてくる。その姿は、まるで主人の後ろを離れない、小さなしっぽのようだった。


「ねえ、いつま」

「ん?」

「……明日から夏休みだね」

「そうだな。部活、忙しいんだろ?」

「うん。でも……その、部活がない日は、また勉強教えてくれる?」


前を歩く俺の制服の裾を、鷗賀の小さな指先が、微かに、本当に微かにクッと引っ張った。

振り返ると、彼女はタオルから目だけを覗かせて、恥ずかしそうに視線を泳がせていた。


「赤点回避したけど……私、やっぱりもっと数II頑張らなきゃいけない気がするから。……だから、その、二人きりでも、いいよ」


それは、彼女にとっての、精一杯の『男としての依真』への歩み寄りだった。

安全圏の壁は、もう完全にボロボロだ。


「……あぁ。いくらでも教えてやるよ」


俺は彼女に見えないように、口元を緩めた。

長い、長い夏休みが、もうすぐそこまでやってきている。


濡れた二人の影は、夕暮れの帰り道、さっきよりもほんの少しだけ、その距離を縮めて重なり合っていた。

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