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放課後のグラウンドと、小さなしっぽ

地獄の期末テストがようやく幕を閉じ、校内には解放感に満ちた生徒たちの声が響き渡っていた。

テスト返却というもう一つの地獄が数日後に迫っているとはいえ、ひとまずは部活動が再開される。それだけで、校舎全体の熱量が一段階上がったような気がした。


「あー! やっと終わった! 解放されたー!」


放課後のグラウンド。

藍庭鷗賀あいにわ おうかは、陸上部のジャージ姿で大きく両手を広げ、青空に向かって深呼吸をしていた。

あの勉強会での一件以来、俺たちの間にはまだどこか気まずい空気が残っていたが、いざグラウンドに立てば、彼女はいつものパワフルな『陸上部のエース』に戻る。


俺――真名依真まな いつまは、部活には所属していない。

だけど、こうして放課後にグラウンドの片隅にあるベンチに座り、彼女が練習する姿を眺めるのが、いつの間にか俺の放課後の日課になっていた。


「いつまー! ちゃんと私の勇姿見ててよ! 今日は跳躍のフォーム確認するんだから!」


遠くからこちらに向かってブンブンと手を振る鷗賀。

押し倒された時のあの真っ赤な顔はどこへやら、今はすっかりいつもの調子に見える。だが、俺が「はいはい、見てるよ」と軽く手を振り返すと、彼女は一瞬だけビクッと肩を揺らし、慌てて視線をバーの向こうへと逸らした。

やっぱり、完全に元通りというわけにはいかないらしい。それでいい。少しでも俺のことを意識し続けてくれれば、俺の勝ちだ。


鷗賀が助走の構えに入る。

彼女の引き締まった身体が、夕日を浴びて綺麗なシルエットを描いていた。

鋭い踏み切りから、軽やかに宙を舞う。バーを越え、マットに沈み込む一連の動作は、何度見ても見惚れるほどに美しかった。


「……あの、真名先輩?」


その時、ベンチの横から控えめな声がした。

振り返ると、そこに立っていたのは、数日前に俺にラブレターをくれた1年の下級生――一ノいちのせさんだった。

彼女は小さく両手でスポーツドリンクのボトルを抱え、おずおずと俺を見つめていた。


「一ノ瀬さん。どうしたの?」

「あ、えっと……。テスト、お疲れ様でした。あの、この前のこと……振られちゃったのに、また声かけてすみません」


彼女は顔を赤くしながらも、一生懸命に微笑んだ。

「でも、先輩が『他にどうしても諦められない人がいる』って言ってくれたから、私、すっきり諦めがついたんです。だから、これからは……その、学校の頼れる先輩として、お話しさせてほしくて」


健気な子だな、と純粋に思った。

自分の好意にきっぱりと区切りをつけ、前を向こうとしている。その真っ直ぐさは、どこか俺の隣の幼馴染にも似ていた。


「うん、俺で良ければいつでも話しかけて。テストの手応えはどうだった?」

「うぅ、数Iが本当に壊滅的で……。先輩、もし良かったら、今度また勉強教えてくれませんか?」


そんな風に、俺と一ノ瀬さんがベンチで他愛のない話を始めた、その時だった。


ズサァッ!!


グラウンドの砂を激しく蹴立てる音がして、俺たちのすぐ近くに誰かが着地した。

見れば、陸上部のマットから猛ダッシュでこちらに突っ込んできた鷗賀が、肩を大きく上下させながら立っていた。その手には、なぜか部活の大きなプラスチック製の冷水筒ジャグが握られている。


「いつまーーーっ!!」

「……うおっ、びっくりした。なんだよ、おうか。急に走ってきて」

「陸上部なんだから走るの当たり前でしょ! それより、マネージャーの先輩に『これ真名くんに届けて』って頼まれたから! はい、お水!」


ドサリ、と重々しい音を立てて、ベンチの上に冷水筒が置かれた。

あからさまな嘘だった。陸上部のマネージャーが、部外者の俺にわざわざ水を届けるわけがない。


鷗賀の視線は、俺の隣に座っている一ノ瀬さんに釘付けになっていた。

その瞳は、いつもの明るさは微塵もなく、まるで自分の縄張りに迷い込んできた小動物を警戒する猛獣のようだった。


「あ、あの……陸上部の、藍庭先輩、ですか?」

一ノ瀬さんが、鷗賀のただならぬ気迫に押されながらも、ぺこりと頭を下げた。

「1年の一ノ瀬です。真名先輩には、この前ちょっとお世話になって……」


「……一ノ瀬さん、だっけ。いつまに、何か用?」


鷗賀の声は、普段の彼女からは想像もつかないほど、低くて冷ややかだった。

一ノ瀬さんはその威圧感に少し身を縮めたが、すぐに意を決したように言った。


「あの、真名先輩に、今度勉強を教えてもらおうと思って、お話ししてました」

「勉強? いつまに?」

鷗賀の眉がピクリと跳ね上がった。

「いつまはね、教えるのすっごく厳しいんだよ? こないだなんて私、部屋で押し倒されて……じゃなくて! とにかく、すっごくスパルタなんだから! 1年生には無理無理!」


「えっ……お、押し倒……っ!?」


一ノ瀬さんの顔が、一瞬で真っ赤から真っ白に変わった。

言葉のチョイスが最悪すぎる。これでは俺がただの犯罪者ではないか。


「おい、おうか。変な誤解を招くような言い方するな」

俺はため息をつきながら、鷗賀のジャージの襟首を後ろからクッと引っ張った。


「一ノ瀬さん、気にしないで。こいつ、ちょっと頭が熱中症になってるだけだから」

「なっ、熱中症じゃないもん! 私はただ、いつまは忙しいから、他の人の面倒まで見てる余裕はないって言いたいの!」


鷗賀は俺の手を振り払い、膨れっ面で俺を睨みつけてきた。

その胸の奥で渦巻く感情が、嫉妬という名の、無自覚な独占欲であることに、本人はまだ気づいていないのだろう。

他の女の子が俺に近づくのが、ただ不快で、我慢ならない。そんな子供のような感情が、彼女の行動を支配していた。


それを見た一ノ瀬さんは、しばらく俺と鷗賀の顔を交互に見つめていたが、やがてふっと、何かに気づいたように小さく微笑んだ。


「……そっか。そういうこと、だったんですね」

「え?何が?」

一人だけ事情が分かっていない鷗賀が、小首をかしげる。


「ううん、何でもありません。真名先輩、私、やっぱり勉強は自分で頑張ってみます! 藍庭先輩、お邪魔してすみませんでした!」

一ノ瀬さんはそう言うと、軽やかな足取りで校舎の方へと走っていった。去り際、俺に向かって「先輩、頑張ってくださいね」と小さく口パクでエールを送ってくれるのを、俺は見逃さなかった。いい子だな、本当に。


グラウンドに残されたのは、俺と、未だに不機嫌オーラを隠そうともしない幼馴染の二人だけ。


「……行っちゃったじゃん。いつま、がっかりした?」

鷗賀は地面の砂をローファーの先で小突きながら、ぷいっと横を向いた。


「別に。元から勉強を教える約束なんてしてないし」

「嘘。本当は可愛い下級生に頼られて、鼻の下伸ばしてたんでしょ。私というものがありながら……」


「お前というもの、ねぇ」

俺はベンチから立ち上がり、彼女の一歩前に踏み込んだ。

夕日の影が、俺たちの足元で長く交わる。


「おうか。お前、さっきから何怒ってんの?」

「怒ってない。別に、普通だし」

「普通は、ただの後輩にそんなに威嚇しない。……もしかして、妬いた?」


「なっ……!!」

鷗賀の顔が、夕日よりも赤く染まった。

「だ、誰がっ、いつまなんかを……!私はただ、いつまが変な女の子に騙されないように、お姉ちゃんとして、見張ってあげただけ!」


「またそれか」

俺は一歩、さらに距離を詰めた。

彼女の鼻先が、俺の胸元に触れそうなくらいの至近距離。


「お前、本当に懲りないな。一昨日のこと、もう忘れたわけ?」

耳元で低く囁くと、鷗賀の身体がびくんと跳ね上がった。彼女の脳裏に、あの畳の上での記憶が鮮明に蘇ったのが分かった。長い睫毛が、激しく震えている。


「あ、あの時は……いつまが、おかしかっただけで……」

「おかしくないよ。俺はいつだって本気だ」


俺は彼女のポニーテールの毛先に軽く触れ、その指先を彼女の頬へと滑らせた。

熱い。彼女の肌は、驚くほど熱を持っていた。


「俺が他の誰の『お兄ちゃん』にもならないように、お前がちゃんと、俺のこと捕まえといてよ、おうか」


「……っ」

鷗賀は言葉を失ったように、ただ大きな瞳で俺を見上げていた。

その瞳の奥にあるのは、もう『家族への信頼』なんかじゃない。一人の男に向けられた、激しい動揺と、そして――確かな熱だった。


「ほら、部活戻れ。顧問の先生が見てるぞ」

俺がぽんぽんと彼女の頭を叩いて離れると、鷗賀は真っ赤な顔のまま、壊れたおもちゃのようにぎこちない動きでグラウンドへと走っていった。


その背中を見送りながら、俺は冷水筒を手に取る。

彼女の『安全圏』は、もう跡形もなく崩れ去ろうとしていた。


(――300話分の、まだ4話目。先は長いけど、お前が俺なしじゃいられなくなる日は、そう遠くないよ)


俺は静かに笑いながら、彼女の走る姿を、再びベンチから見つめ始めた。

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