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3/14

密室の勉強会と、狂い出した鼓動

あの渡り廊下での事件から数日。

俺と藍庭鷗賀あいにわ おうかの間に流れる空気は、奇妙なほどにぎこちなくなっていた。


いつもなら「いつま、お昼食べよ!」と俺の教室に突撃してくるはずの彼女が、ここ数日は遠くから俺の姿を見つけると、なぜか「あ、う、うん!」と不自然に視線を泳がせて逃げ出してしまうのだ。

完全に意識している。俺の策略は、彼女の『安全圏』を確実に浸食していた。


だが、そんな逃亡劇も、容赦なくやってくる『期末テスト』という現実の前には通用しなかった。


「……お願い、いつま様。赤点だけは、赤点だけは勘弁してください……!」


土曜日の午後。

俺の部屋の畳の上で、鷗賀はノートを頭に乗せたまま、綺麗な土下座を披露していた。

エアコンが静かに唸るだけの涼しい室内。彼女は学校の制服ではなく、少し着古したTシャツにショートパンツという、あまりにも無防備な部屋着姿だった。


「お前、あれだけ俺を避けておいて、テスト前になったらこれかよ」

「うぐっ……それは、その、色々と考え事があって……。でも、数IIの因数分解と確率、本当に意味不明なんだもん! このままだと夏休みの補習で、部活の大会に出られなくなっちゃう!」


鷗賀はすがりつくような目で、床から俺を見上げてきた。

部活(陸上部)のことになると、彼女は途端に必死になる。その真っ直ぐな瞳に見つめられると、結局いつも折れてしまうのが俺の悪い癖だった。


「はぁ……。分かったから、早く机に座れ」

「やったー! 持つべきものはやっぱり持つべき幼馴染だね!」


現金なやつだ。鷗賀はパッと顔を輝かせると、俺のベッドの横にあるローテーブルにノートを広げた。


「じゃあ、この確率の問題からな。まず、全体の組み合わせを数えて……」


俺は彼女の隣に腰を下ろし、シャーペンを持ってノートに数式を書き込んでいく。

その瞬間、鷗賀の身体が微かにビクッと強張ったのが分かった。


距離が、近すぎるのだ。


肩と肩が触れ合いそうな距離。彼女のシャンプーの、ほんのり甘い青リンゴの香りが、エアコンの風に乗って俺の鼻腔をくすぐる。

いつもなら気にしなかったはずのその香りが、今の俺にとっては猛毒のように五感を狂わせていく。


「……おうか?聞いてるか?」

「えっ? あ、うん!聞いてる、聞いてるよ! 全体の組み合わせ、でしょ?」


鷗賀の声は少し上ずっていた。

彼女の視線はノートに向けられているが、その耳たぶが、じわじわと林檎のように赤くなっていくのを、俺の目は逃さなかった。


「じゃあ、この場合はどうなる?」

「えっと、それは……」


鷗賀が考え込もうと、ノートに顔を近づけた。その拍子に、彼女の長く伸びたポニーテールの毛先が、俺の頬をチクリと刺激する。


「……っ」


無意識の破壊力は凄まじい。俺は内心の動揺を隠すように、わざと少し意地悪な口調で言った。


「お前、全然集中してないだろ。さっきから手が止まってるぞ」

「集中してるってば! ただ、ちょっと……その……」

「ちょっと、何だよ」


俺が彼女の顔を覗き込むと、鷗賀は慌てて顔を背けた。

だが、そのせいで彼女の華奢な首筋が、俺の目の前に無防備に晒されることになる。


「……いつまの距離が、近いからじゃん」


蚊の鳴くような声で、鷗賀が呟いた。


「前は、こんなに緊張しなかったのに……。いつまのバカ。数日前から、なんか変だよ」

「変なのはお前だろ。俺はいつも通り、勉強を教えてるだけだ」

「嘘。いつも通りじゃない!」


鷗賀が勢いよく振り返った。その瞳には、焦りと、そしてどこか泣き出しそうな熱がこもっていた。


「前はもっと、優しかったもん!バッグだって持ってくれたし、ゴミだって捨ててくれた!なのに、最近は冷たいし、目を見てくれないし……なのに、急にそんな近くに来るし……!」

「冷たくなんてしてない。お前を一人前の大人として扱ってるだけだ」

「私は『お兄ちゃん』のいつまがいいの! 何も変わらない、ずっと安全なままでいてくれるいつまがいいの!!」


叫ぶような彼女の言葉。

あぁ、やっぱり。彼女はまだ、その心地いい檻の中に閉じこもっていたいのだ。

俺が傷つくことも、俺がどれだけの想いを抑え込んでいるかも知らずに、自分だけの『安全』を求めている。


胸の奥で、何かが激しく弾けた。


「安全、か」


俺は持っていたシャーペンを机にコトリと置いた。

その冷徹な音に、鷗賀が息を呑む。


「おうか。お前、本当に俺が『お兄ちゃん』に見えてるのか?」

「え……?」

「じゃあ、これは? これでも、ただの家族だ言い切れるのか?」


俺は躊躇わずに、彼女の両肩を掴んで、畳の上に押し倒した。


「――ひゃっ!?」


短い悲鳴と共に、鷗賀の背中が柔らかい畳に沈む。

俺は彼女の身体を覆い隠すように、上から覆いかぶさった。

ローテーブルの上の参考書が少しズレて、床に落ちる音が響く。だが、今の俺たちには、その音すら遠い世界の出来事のように思えた。


目の前には、仰向けになった鷗賀の顔。

彼女の瞳には、天井の灯りではなく、完全に理性を失いかけている俺の姿が映っていた。


「いつ、ま……何、これ……離して……」

「離さない」


俺は彼女の手首を掴み、頭の上で固定した。あの渡り廊下の時よりも、ずっと強固に、確実に。

彼女の細い手首に触れる俺の指先から、ドクドクと激しい脈動が伝わってくる。それが俺のものなのか、彼女のものなのか、もう区別がつかなかった。


「嫌なら、力で振り払ってみろよ。お前、陸上部だろ? 短距離も跳躍も、俺よりずっと動けるはずだ」

「そんなの……無理だよ……。いつま、男の人の力、だもん……」


鷗賀の瞳から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。

その涙を見た瞬間、胸が締め付けられるような罪悪感が襲ってきた。けれど、俺は手を緩めなかった。ここで引いたら、また彼女は『安全な幼馴染』の仮面を被って逃げてしまう。


「そうだよ。俺は男なんだよ、おうか」


俺は彼女の耳元に顔を近づけ、低く、掠れた声で囁いた。


「お前が他の男と話してたら狂いそうになるし、お前が他の誰かのものになるくらいなら、全部ぶち壊してやりたいって思う。……これが、お前の言う『お兄ちゃん』の正体だよ」

「いつ、ま……」

「これでもまだ、俺のことを安全圏そこに閉じ込めておくつもりか?」


鷗賀の身体が、小刻みに震えていた。

彼女の顔は赤く染まり、涙で濡れた瞳でじっと俺を見つめている。その表情は、恐怖ではなく、完全に『一人の男』に圧倒され、心をかき乱されている女の顔だった。


沈黙が、部屋の空気を重く支配する。

エアコンの冷気が、熱くなった俺たちの肌を冷やしていく。


「……ごめん」


数秒の後、俺はふっと身体の力を抜き、彼女の手首を離した。

そのまま畳の上に寝転び、天井を見上げる。激しく波打つ呼吸を整えようと、腕で目を覆った。


「……やりすぎた。悪かった。……もう帰れ」


嫌われたかもしれない。怖がらせたかもしれない。

最悪の結末が頭をよぎる。けれど、後悔はしていなかった。


しばらくの間、部屋には二人の荒い呼吸音だけが響いていた。

やがて、衣擦れの音がして、鷗賀がゆっくりと身体を起こした気配がした。彼女は荷物をまとめて、泣きながら部屋を出ていくのだろう――そう思った。


だが、次に聞こえてきたのは、予想外の音だった。


「……帰らない」


グスッと鼻をすする音と共に、小さな声がした。

目を覆っていた腕をどけると、そこには、涙を拭いながら、真っ赤な顔で俺を睨みつけている鷗賀の姿があった。


「帰らないもん……。だって、まだ確率の問題、半分も解いてない」

「お前……あんなことされて、怖くないのかよ」

「怖いよ! めちゃくちゃ心臓バクバク言ってるし、いつまが全然知らない人みたいで、頭おかしくなりそうだよ!」


鷗賀はポロポロと新しい涙を流しながら、俺の胸元をぽかぽかと力なく叩いた。


「でも……いつまがいなくなったら、私、本当にどうしていいか分かんないんだもん……。だから、勉強教えて。赤点は絶対に嫌なの」


その言葉は、彼女なりの、必死の抵抗であり、最大の妥協だった。

『恋人』としてはまだ受け入れられないけれど、俺を『拒絶』することもできない。


俺は苦笑しながら身体を起こし、床に落ちた参考書を拾い上げた。


「……分かったよ。ほら、涙拭け」

「……ん」


ティッシュを渡すと、鷗賀は実につまらなそうに鼻をかんだ。

再びローテーブルに向かい合う俺たち。

距離はさっきよりも少しだけ空いていた。けれど、二人の間の空気は、もう二度と元には戻らないほど、熱く、歪んでしまっていた。


鷗賀は必死にノートに向かっているが、その手元は微かに震えている。

彼女の『安全圏』は、今日、完全に崩壊したのだ。


(――焦らなくてもいい。ゆっくり、俺に染まっていけばいいから)


ノートに書き込まれる数式を見つめながら、俺は心の中で、静かに次の作戦を練り始めていた。

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