お兄ちゃんは、もうここにいない
翌朝、初夏の陽気は朝から容赦なく照りつけ、登校する生徒たちの影をアスファルトに濃く落としていた。
「おっはよー、いつま! 今日も暑すぎ!」
いつも通りの朝、いつも通りのタイミングで、藍庭鷗賀が我が家の門の前に現れた。
寝癖を少し残したままの黒髪をポニーテールにまとめ、手には半分溶けかけたパウチ入りのゼリー飲料を持っている。彼女にとって、俺の家の前で待つことは、呼吸をするのと同じくらい当たり前のルーティンだった。
昨日、帰り道で俺が投げかけた問い。
『――俺が他の誰かと付き合っても、お前は平気なの?』
あの時、鷗賀は一瞬だけ鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたが、数秒後には「なーんだ、いつまがそんなこと言うなんて珍しいじゃん! 焦ったー!」と、いつもの爆笑で誤魔化してしまった。
結局、彼女の中では『依真が自分以外の誰かを選ぶはずがない』という、傲慢とも言えるほどの絶対的な安心感が根底にあるのだ。
だから、俺は決めた。
まずは、その当たり前を、少しだけ壊してみようと。
「……あぁ、おはよう」
俺はいつもなら「また寝坊しかけたろ」と小突くところを、ただ短く返事をするに留めた。
そして、彼女の歩調に合わせてゆっくり歩くのではなく、自分のペースのまま、すっと前を歩き出す。
「あれ? いつま、ちょっと待ってよ。歩くの早くない?」
「そうか? いつも通りだけど」
「嘘、絶対早いって。あ、これゴミ捨てといて!」
鷗賀が飲み干したゼリーの空きパウチを、当然のように俺の手に押し付けようとしてくる。
今までの俺なら、小言を言いつつもそれを受け取り、自分のスクバのサイドポケットに仕舞ってやっていた。それが『お兄ちゃん』としての、俺のいつもの役割だったからだ。
だが、俺は差し出された彼女の小さな手を、受け取らずに一瞥しただけだった。
「駅のゴミ箱に捨てなよ。自分のゴミだろ」
「えっ……?」
鷗賀の手が、空中でピタリと止まる。
彼女の大きな瞳が、驚きに丸くなった。
いつもなら絶対に甘えを許してくれた『お兄ちゃん』が、初めて明確な拒絶を示したのだ。その事実に、彼女の脳内が追いついていないのが見て取れた。
「な、何それ、ケチ。いつもは捨ててくれるじゃん……」
「いつもが異常だったんだよ。もう高校生なんだから、それくらい自分でやりな」
俺はそれ以上言葉を重ねず、彼女を置いてスタスタと駅への階段を上っていった。
後ろから「あ、待ってよいつま!」と慌てて追いかけてくるローファーの音が響く。その音を聞きながら、胸の奥が少しだけ痛んだ。けれど、それ以上に「これでいい」という冷徹な確信があった。
付き合うということは、甘え合える家族になることじゃない。
一人の男と、一人の女として、向き合うということだ。
*
その日の昼休み。
俺たちの通う高校の渡り廊下は、日差しが差し込んでひどく蒸し暑かった。
俺は購買で買った焼きそばパンを口に咥えながら、自販機で冷たい缶コーヒーを買おうと小銭を入れていた。
「あの……真名、先輩、ですか?」
背後から、少し震えるような、鈴の鳴るような声がした。
振り返ると、そこには見覚えのない、けれど確かに昨日噂になっていた『1年の女子生徒』が立っていた。小柄で、守ってあげたくなるような雰囲気を纏った、お人形さんのような女の子。
彼女は自分の制服のスカートの裾をぎゅっと握りしめ、顔を真っ赤に染めて俺を見上げていた。
「これ……っ、読んでください! ずっと、お話ししてみたかったんです!」
差し出されたのは、パステルピンクの封筒。古典的だが、だからこそ真っ直ぐな好意が詰まった、紛れもないラブレターだった。
俺の心は、酷いくらいに冷めていた。
目の前の女の子の勇気は立派だと思う。だが、俺の視線は、渡り廊下の陰からこちらを盗み見ている、もう一つの影に釘付けになっていた。
――藍庭鷗賀。
彼女は、紙パックのイチゴオレを両手で持ったまま、柱の陰からこちらを凝視していた。
いつもなら「行け行けー!」とジェスチャーで応援してくるはずの彼女が、今はまるで見つかってはいけない秘密を見てしまったかのように、強張った表情で立ち尽くしている。
俺は、1年の女子生徒の目を真っ直ぐに見つめ直した。
「……ありがとう。大切に読ませてもらうよ」
「っ、はい! ありがとうございます!」
女の子はパッと顔を輝かせ、深々と頭を下げて走り去っていった。
手元に残されたピンクの封筒。俺はそれをスクバに仕舞うと、わざとらしく柱の陰に向かって歩いた。
「そこで何してんの、おうか」
「あ……っ、いつま」
隠れきれていなかった鷗賀が、びくりと肩を揺らして姿を現した。
いつもなら「ひゅーひゅー! やるじゃん!」と茶化してくるはずなのに、今の彼女の口元は、微かに引き攣っている。イチゴオレを持つ指先が、心なしか震えているようにも見えた。
「今の……やっぱり、告白だったんだ」
「さあね。手紙もらっただけだから」
「付き合うの?」
その問いは、今までに聞いたことがないくらい、低くて、どこか焦燥感を含んだ声だった。
「さあ。これから手紙を読んで、それから考えるよ。……それが普通だろ」
「……そっ、か。そうだよね。いつまも可愛い彼女ができたら、私なんかと遊んでくれなくなるもんねー。あはは、寂しくなるなぁ」
鷗賀は無理に作った笑顔で、いつものように俺の肩をポカポカと叩こうとした。
いつもの『幼馴染』のノリで、この気まずい空気をリセットしようとする彼女の防衛本能。
だが、俺はその手首を、空中でガシッと掴んだ。
「――っ!?」
鷗賀の息が止まる。
俺が彼女の手首を掴んだ強さは、決して痛くはない。けれど、彼女が自分の力では絶対に振り払えない、明確な『男の力』の強さだった。
「いつ、ま……?」
「お前さ、さっきから何なんだよ」
俺は掴んだ手首を引き寄せ、彼女との距離をぐっと縮めた。
渡り廊下の壁に彼女の背中が軽く当たる。実質的な、軽い壁ドン(かべドン)の体勢だった。
至近距離で交わる視線。鷗賀の瞳に、俺の冷徹な、けれど熱を帯びた瞳が映り込んでいる。彼女の長い睫毛が、細かく震えていた。
「寂しくなる、か。お前の中の俺は、そんなに安い存在なのかよ」
「ちが、違う、私はただ……」
「俺は、お前の都合のいいお兄ちゃんじゃない。他の奴と付き合うなと言われたら、俺はお前の言葉を最優先する。……でも、お前はそれを言わないだろ?」
鷗賀の唇が、小さく戦慄いた。
彼女の胸元が、激しい鼓動のせいで大きく上下しているのが分かる。
初めて見る依真の表情。初めて触れる、男としての圧力。彼女の脳内にある『安全圏』という名のガラスの城が、ピキリと音を立ててひび割れた瞬間だった。
「いつま、離して……誰か、来ちゃうから……」
「……あぁ、そうだな。悪かった」
俺はすっと手を離し、一歩後ろに下がった。
掴まれていた手首を自分の胸元で抱え込み、信じられないものを見るような目で俺を見つめる鷗賀。その顔は、ほんのりと赤く染まっていた。それが夕暮れの暑さのせいではないことくらい、俺にも分かった。
「じゃあな。放課後は、さっきの子と話すから、今日は一緒に帰れない」
俺は背を向け、彼女をその場に残して歩き出した。
後ろを振り返ることはしなかった。今振り返れば、彼女のあの怯えたような、けれど潤んだような瞳に、俺の決意が鈍ってしまうかもしれないから。
背後で、彼女が持っていたイチゴオレのパックが、クシャリと音を立てて潰れる音が聞こえたような気がした。
*
放課後。
いつもなら「いつま、帰ろ!」と教室のドアを開ける彼女の声が響く時間。
けれど今日の俺の前の席は、がらんとして空っぽだった。
俺は一人、夕日に染まる校門をくぐる。
スクバの中には、結局断りの返事を入れたピンクの封筒が入っている。あの1年の女の子には、他に好きな人がいると正直に伝えた。彼女は泣きそうな顔をしながらも、「先輩のそういう真っ直ぐなところが好きでした」と微笑んでくれた。
誰かの好意を無下にすることは、胸が痛む。
けれど、俺の心には、もう一人の女の子を入れる隙間なんて、1ミリも残されていないのだ。
家へと続く坂道を上っていると、前方に見慣れた人影が見えた。
鷗賀だった。
彼女は自転車を押しながら、トボトボと力ない足取りで歩いていた。いつもなら一瞬で坂道を駆け上がるはずの彼女が、まるで世界の終わりに立ち向かうかのような暗いオーラを纏っている。
「おうか」
後ろから声をかけると、彼女はビクッと跳ね上がり、ロボットのような動きで振り返った。
「い、いつま……! え、なんで? 今日、あの子と……」
「話は終わった。だからもう帰るんだよ」
「そ、そうなんだ……。付き合う、ことになったの?」
彼女の瞳は、今にも雨が降り出しそうなくらい、不安げに揺れていた。
俺はその顔をじっと見つめ、意地悪に少しだけ微笑んだ。
「さあ、どうだろうね」
俺は彼女の横を通り過ぎ、先に歩みを進める。
「あ、待ってよ!」と彼女が自転車を押しながら追いかけてくる。
その距離は、今朝までの『当たり前の距離』とは違っていた。彼女は俺の半歩後ろを、少しだけ遠慮がちに、けれど必死についてこようとしていた。
安全圏は、もう壊れ始めている。
彼女が俺を『一人の男』として認め、その手を伸ばしてくるまで、俺の心動大作戰は終わらない。
(――ほら、もっと俺を見てよ、おうか)
夕日が、俺たちの伸びた影を、いつもより少しだけ近くで重ね合わせていた。




