限界突破の一メートル五十、歓声の死角と支配者の暗号
スタジアムを包む歓声が、地鳴りのように地響きを立てて観客席から押し寄せていた。
秋季県大会、女子走高跳の決勝。競技場の中央に位置するピットには、すでに陽が傾き始めた秋の鋭い光が差し込み、限界の高さを象徴する一本の細いバーを鮮やかに照らし出していた。
バーの高さは――一メートル五十。
それは、藍庭鷗賀にとって、これまでの競技人生で一度も超えたことのない、高すぎる壁だった。他の有力選手たちが次々と三回目の試技で失敗し脱落していく中、残されたのは鷗賀の最後の一本だけとなっていた。
「次、私立第一中学、藍庭さん。三回目」
無機質なアナウンスが響き渡ると同時に、スタジアムの視線が一斉にピットの起点に立つ一人の少女へと集中した。
今日の鷗賀は、紺色の公式セパレートユニフォームに身を包み、引き締まった細い手足を秋の風に晒していた。だが、その華奢な身体は、全校生徒や他校の男子部員、そしてスタンドからの無数の視線による重圧で、今にも崩れ落ちそうなほどに硬直していた。
(……足が、動かない……っ)
鷗賀は胸元を強く押さえ、浅い呼吸を繰り返しながら、激しく脈打つ心臓を抑え込もうとしていた。
観客席にいる陸上部の仲間たちからの「藍庭、頑張れ!」「いけるぞ!」という声援すら、今の彼女にとっては鼓膜をすり抜ける雑音に過ぎなかった。緊張とプレッシャーで、碧緑色の瞳が絶望に揺れる。
その時だった。
鷗賀はまるで本能に突き動かされるように、観客席の最上段、一般生徒の立ち入りが制限されている報道関係者用の死角へと視線を向けた。
そこには、周囲の喧騒から完全に孤立した空間で、腕を組んで冷徹に自分を見下ろしている一人の少年――真名依真の姿があった。
遠く離れた距離。しかし、二人の視線は百発百中で重なり合った。
依真は一切の表情を崩さず、ただ冷酷で、だけど絶対的な支配の光を宿した瞳で彼女を凝視していた。そして、右手の指先でゆっくりと自分の首筋に触れてみせた。
――『お前を縛る鎖は、今も俺の手の中にある。無様な姿を見せたら、どうなるか分かっているな』
それは、数分前に薄暗い備品倉庫で交わした、二人だけの『支配の暗號』だった。
ユニフォームの襟元に隠された、まだ熱を持ってズキズキと痛む赤黒い噛み跡が、彼女の脳内に鮮烈な記憶を呼び覚ます。
(あぁ……っ、いつま……っ!)
その瞬間、鷗賀の身体を縛っていたすべての恐怖とプレッシャーが、まるで嘘のように霧散していった。
彼女を満たしたのは、観客への義務感でも、勝利への執着でもない。ただ一つ、【依真の檻の中で、彼の所有物として完璧でありたい】という、狂気的なまでの絶対的従属の熱だった。
トッ、トッ、トトトトッ……!
鷗賀のスパイクが、乾いたトラックのタータンを力強く蹴り上げた。
流れるような美しい曲線を描き、スピードを殺すことなくピットへと突入していく。その躍動感あふれる姿に、他校の男子選手たちが息を呑むのが分かった。
踏み切り位置――完璧。
ドンッ! と力強い破裂音が響き、彼女の身体は重力を振り切るようにして秋の青空へと舞い上がった。
空中で描かれる、完璧な背退び(フォスベリー・フロップ)のアーチ。
背中を極限までしならせ、バーのわずか数ミリ上を滑るようにして彼女の身体が通過していく。懸念されていた腰の引き上げも、依真の手のひらの熱を思い出すかのように、驚異的な角度で跳ね上がった。
ふわり、と厚手の青いマットの上に背中から落ちる。
その瞬間、一メートル五十の横バーは、微かに震えながらも、落とされることなくその位置に留まり続けた。
――ウォォォォォッ!!
スタジアム全体から、割れんばかりの歓声と拍手が沸き起こった。「自己ベスト更新だ!」「優勝だぞ!」という叫び声が響き渡る。
マットの上で起き上がった鷗賀は、全校生徒の注視を浴びながら、真っ先に観客席の最上段を見上げた。しかし、そこにはもう、依真の姿はなかった。
競技終了後、表彰式へ向かうための地下連絡通路。
きらびやかなスタジアムの喧騒とは対照的に、コンクリートの壁に囲まれた薄暗い通路は、冷たい静寂に包まれていた。
金メダルを胸に下げた鷗賀が、息を切らせながら通路の奥へと歩いていくと、影の中から無言の手が伸び、彼女の手首を強引に引き込んだ。
「ひゃうんっ……!? ――い、いつま……っ!」
気づいた時には、彼女は通路の奥にある、照明の消えた暗い用具室の壁へと押し付けられていた。
ガチャリ、と内鍵が閉まる音。本日何度目かになる、二人だけの絶対的な密室。
「素晴らしい跳躍だったぞ、おうか。全校生徒の前で、あんなに淫らに身体をしならせて、大歓声を浴びていたな」
依真の低く、狂気的な嫉妬を孕んだ声が彼女の鼓膜を震わせる。
「いつま……っ、見ててくれたんだよね……っ? 私、跳べたよ……! いつまの暗号が見えたから……っ!」
「あぁ、見ていたさ。お前が最高に輝いた瞬間、お前をこの暗闇に引きずり戻して、俺の鎖で縛り上げるこの瞬間を、ずっと楽しみにしていた」
依真は彼女の胸に輝く金メダルを乱暴に押しのけると、大勢の観客の視線を浴びて火照ったままの彼女の白い首筋へ、容赦なく深く唇を押し当てた。
「はぁ……っ、ん、あぁ……っ! いつま……ここ、すぐ外に人が通るよ……っ、声が出ちゃう……っ!」
「出せばいい。お前が誰の檻の中で一番高く跳んだのか、外の連中に教えてやれ」
依真は彼女の顎を強く掴んで固定すると、自己ベストを更新して歓喜に震える彼女の熟した唇へと、狂暴なほどの独占欲を込めて自分の唇を深く、深く重ねた。
「んむ……っ!? ――ん、はぁ……んぅ……っ!」
コンクリートの死角で響き渡る、激しい唾液の音と、二人の荒い吐息。
鷗賀は首から下げた金メダルがカチャカチャと音を立てるのも構わず、自分から依真の首に細い腕を回し、全校の注視から隠されたこの暗闇の背徳感の中で、狂おしいほどの愛を込めて何度も、何度も激しいキスを返した。
「んぅ……っ、いつ……ま……っ! 私は……どんなに高く跳んでも……着地するのはいつまの腕の中だけだよ……っ。大好き……大好きだよ、いつま……っ!」
外からは表彰式の次のアナウンスが遠く響いている。
しかし、世界がどれほど彼女を称賛しようとも、彼女のすべてを支配し、その羽を毟って檻の中に閉じ込めているのは、世界中で依真ただ一人だけだった。




