始業式の距離感と、放課後の部室における密室の精算
九月一日。長かった夏休みが明け、学校の校舎には再び生徒たちの喧騒と、どこか気怠げな新学期の空気が戻ってきた。
始業式が終わり、教室の窓から差し込む西日が廊下を長く赤く染める頃、俺――真名依真は、放課後のざわめきの中を一人、陸上部の部室へと向かっていた。
今日の始業式、そして昼休み。
藍庭鷗賀は、夏の合宿で好成績を残した期待の星として、クラスの連中や他の部員たちに囲まれ、終始賑やかな中心にいた。
学校という公の場では、俺たちの「特別な関係」は完全に隠匿されなければならない。すれ違いざま、彼女が俺に送ってきた他人行儀な会釈と、どこか申し訳なさそうな碧緑色の瞳。
その徹底された『距離感』が、俺の胸の奥にある独占欲の檻を、じりじりと不快に焦がしていた。
ガチャリ。
誰もいなくなった放課後の女子陸上部室の扉を開け、俺は室内に滑り込んだ。
薄暗い室内には、スチール製のロッカーや、プロテインのシェイカー、そして部員たちの制服や柔軟剤の香りが混ざり合った、特有の密閉された熱気が籠っている。
「――あ、いつま……っ」
パイプ椅子に座ってスパイクの手入れをしていた鷗賀が、俺の姿を見てハッと顔を上げた。
彼女はすでに、白のブラウスにチェックのスカートという、見慣れた学校の制服姿に戻っていた。結い上げた黒髪から覗く白い首筋には、数日前のグラウンド特訓で俺が残したあの「噛み跡」が、ファンデーションで必死に隠されているのが見える。
俺は何も言わず、背後で部室のドアを閉めると、内側の鍵をカチャリと音を立てて反鎖した。
「い、いつま……っ? 鍵を閉めたらダメだよ……っ。まだ他の部員が戻ってくるかもしれないし……っ!」
怯えたように立ち上がる鷗賀。
俺は彼女との距離を詰め、スチールロッカーの壁際へと強引に彼女を追い詰めた。
ドン……!
大きな音が部室に響き、鷗賀の華奢な背中がロッカーに押し付けられる。
「今日の昼間、随分と楽しそうだったな、おうか」
「え……っ? それは……クラスのみんなが合宿のこと聞いてきたから、普通に話してただけで……っ」
「普通、か。俺の前を通り過ぎる時、お前はまるで赤の他人のような目をしていたな。あの男どもと笑い合っている時間が、そんなに心地よかったか?」
俺の低く冷徹な声に、鷗賀はキュッと肩を震わせ、涙目で俺のシャツの胸元を見つめた。
「違うよ……っ! 学校では隠さなきゃいけないって、いつまが言ったから……! 私だって、本当はいつまと話したかった……っ。ずっと、いつまのことばかり見てたんだよ……っ?」
「なら、その証拠を見せてもらおうか。学校の連中に囲まれて、俺の鎖が少し緩んだと思っているなら、大間違いだ」
俺は彼女の細い顎を強引に指先で固定し、顔を上向かせた。
ファンデーションの下から、俺が付けた赤黒い刻印が微かに透けている。俺はわざとその痕跡の上から、容赦なく自分の指頭を強く押し付けた。
「くぅん……っ!? ――痛い、いつま……っ、んぁっ!」
「痛むか? なら、思い知れ。お前が誰のもので、誰の檻の中で生かされているのかをな」
俺は彼女の唇を奪うように、深く、激しく自分の唇を重ねた。
「んむ……っ!? ――ん、はぁ……んぅ……っ!」
夕暮れの薄暗い部室、ロッカーに押し付けられた状態で、二人の吐息と唾液の音が狭い部屋に響き渡る。
外の廊下からは、まだ他の生徒たちの笑い声や、部活動に向かう足音がかすかに聞こえてくる。誰かに見つかるかもしれないという学校特有の極限の背徳感が、鷗賀の身体をガタガタと甘く震わせた。
「んぅ……っ、いつ……ま……っ、ダメ……誰か来ちゃう……っ!」
「来ればいい。お前が俺のものだと全員に知らしめるだけだ」
「あぁ……っ、そんなの、狂ってる……っ、でも……っ!」
鷗賀は抵抗する力を失い、自ら俺の制服の首元を強く掴むと、ロッカーの冷たい感触に耐えながら、狂おしいほどの愛を込めてキスを返してきた。
ブラウスの隙間から覗く彼女の肌が、俺の熱によって赤く染まっていく。
「ん、はぁ……っ、いつま……大好き……っ。学校でも、どこでも……私はいつまだけのものだから……怒らないで……っ」
「あぁ、分かればいい。お前がどんなに他人の前で奇麗に装おうとも、この部室の中で俺にひざまずくのが、お前の本当の姿だ」
放課後の赤い西日の中、密室となった部室で、二人はより深く、より逃れられない支配の鎖を互いの心に縛り付けるのだった。




