深夜の巡回と、布団の中の窒息しそうな鼓動
海辺の強化合宿、その最後の夜。
昼間の激しい太陽と九十九里浜の砂浜トレーニングの喧騒が嘘のように静まり返った木造旅館の廊下には、古びた柱時計が刻むコトコトという無機質な音と、窓の隙間から滑り込んでくる遠い太平洋の潮騒だけが響いていた。
午前一時十五分。
俺――真名依真は、完全に消灯時間を過ぎ、同室の男子部員たちが泥のように眠りこけて規則正しい寝息を立てている隙を突き、部屋の薄い障子戸を音もなく開けて廊下へ抜け出した。
足音を完璧に殺し、きしみやすい木造廊下の端を選んで慎重に一歩一歩を踏み締めながら向かうのは、廊下の最奥に位置する、男子生徒立ち入り厳禁の女子部屋だ。
目的の部屋の前に立ち、周囲の気配を完全に探ってから、俺は障子戸を僅か数センチだけ滑り込ませるように開け、その隙間からすばやく闇の中へと身を投じた。
室内には、海風で冷やされた夜の空気と、女子部員たちが使う洗顔料やヘアオイルの甘く柔らかい香りが充満していた。同室の二人の女子選手は、連日の厳しい練習による疲労困憊のためか、布団をかぶって深い眠りの中に落ちている。
一番奥の窓際、畳の上に敷かれた敷布団の上で、膝を抱えるようにして身を縮めていた藍庭鷗賀が、俺の侵入する微かな気配を感じ取ってハッと顔を上げた。
「(い、いつま……!? どうしてここに……っ!? ここ、女子部屋だよ……っ!?)」
驚きと焦燥で碧緑色の瞳を大きく見開き、声を出さずに口パクで強く訴えかけてくる鷗賀。
今日の彼女は、旅館から支給された薄手の温泉浴衣姿だった。普段まとめているポニーテールを解いた綺麗な黒髪が肩から胸元にかけて乱れ散り、少しだけはだけた胸元からは、昼間の日焼け防止クリームの残り香と、お風呂上がりの石鹸の甘い香りが妖艶に立ち上っている。
「(黙れ。お前が俺のいない夜を平気な顔で過ごしているか、確かめに来たんだよ)」
俺が彼女の布団の脇に静かにしゃがみ込み、その滑らかな頬に手を伸ばした、まさにその瞬間だった。
――ペタ、ペタ。
――コン、コン。
廊下の遠くから、重く湿ったスリッパの足音と、木戸を乱暴に叩く音が聞こえてきた。続いて響いたのは、陸上部顧問の厳格で不機嫌そうな声だった。
「見回りだぞー。消灯時間はとっくに過ぎている。ちゃんと全員寝ているかー?」
「(っ……!? た、大変……! 顧問の先生の巡回……っ!)」
鷗賀の顔が一瞬で血の気を失い、蒼白になる。もし男子生徒である俺が女子部屋に忍び込んでいるのが見つかれば、合宿強制送還どころか、即座に厳しい停学処分と今後の大会出場停止という致命的な処分が待っている。
「(いつま、逃げて……っ! でも今廊下に出たら絶対に鉢合わせするよ……っ! どうしよう……っ!)」
「(逃げる場所なんて、最初から一つしかないだろ)」
俺は一瞬の躊躇もなく、鷗賀が横たわっていた一枚の薄い敷布団の中へと強引に割り込み、上から綿の掛け布団をすっぽりと二人の頭までかぶさった。
「(ひゃうんっ……!? ――い、いつま、狭いよ……っ! 入ってこないで……っ!)」
狭く暗い布団の中で、二人の身体が密着する。
薄い浴衣越しにダイレクトに伝わる鷗賀の熱く湿った体温、彼女の肌の吸い付くような柔らかさ、そして密室の中に充満する狂おしいほどの甘い香気。俺の胸板には彼女の豊かな胸の膨らみが強く押し付けられ、お互いの胸の奥で高鳴る心臓の鼓動が、まるで一つのリズムを刻むように激しく響き合っていた。
――カチャン。
障子戸がゆっくりと開く音。顧問の先生が手にした懐中電灯の強烈な光が、部屋の中へと滑り込んできた。
「……ん、みんなよく寝ているな。疲れが出たか」
先生のスリッパの足音が、きしみやすい畳を踏み締めながら、ゆっくりと、確実に俺たちの敷かれている布団の方へと近づいてくる。
「(しーっ……絶対に声を出すなよ、おうか。見つかったら、お前の大切な陸上人生もここで終わりだ)」
「(っ……いつまのバカ……っ! こんな時にまで……っ)」
俺は布団の密室の闇の中で、彼女の熱い耳元に直接唇を寄せ、音にならない息を吹きかけた。
先生の足音が、ついに俺たちの布団のすぐ横、わずか数センチの場所でピタリと止まる。
懐中電灯の鋭い光の束が、掛け布団の薄い布地越しにぼんやりと赤く透けて見えた。息を吸うことすら許されない、一秒が一年にも感じられるほどの絶望的で息が詰まるような緊張感。
逃げ場のない被覆の闇の中で、俺の性急で暗い支配欲が酷く刺激された。
俺はわざと彼女の細い腰を力強く引き寄せ、浴衣の裾をそっと捲り上げると、汗ばんだ滑らかな太ももの内側へと自分の手を滑り込ませた。
「(ん……っ!? ――や、いつま……今、そんなところ触られたら……声が出ちゃう……っ!)」
鷗賀は涙目で必死に首を振るが、声を上げるわけには絶対にいかない。
すぐ隣に先生がいるという極限の恐怖と、布団の中という絶対的密室での背徳的な愛撫。二つの過剰な刺激が彼女の感性を極限まで研ぎ澄ませ、彼女は自分の唇を強く噛み締めながら、溢れ出そうになる甘い喘ぎ声を殺すために俺の胸元に必死で顔を押し付けて耐え続けた。
「よし、異常なしだな。明日も早朝からの砂浜トレーニングがあるから、しっかり寝ておけよ」
先生のスリッパの足音がようやく遠ざかっていき、障子戸が静かに閉まる音がした。
危険が完全に去ったことを確認した瞬間、布団の中で鷗賀は「はあぁぁ……っ」と大きく息を吐き出し、胸を激しく上下させながら俺の胸にガクリと力なく頭を預けてきた。
「(ふあぁぁ……っ、本当におかしくなるかと思った……っ! いつまの意地悪……っ!)」
「(よく声を耐えたな。……偉いぞ、おうか)」
俺は掛け布団を少しだけ捲り上げ、熱気とふたりの吐息がこもった闇の中で、荒い息を吐く彼女の熟した唇へと深く、激しく自分の唇を重ねた。
「んむ……っ!? ――ん、はぁ……んぅ……っ!」
布団という誰にも邪魔されない極小の密室で、二人の舌が濃厚に絡み合う。
合宿の極限の緊張感、逃避行の背徳感、そしてお互いへの抑えきれない愛しさが、熱いキスとなって溶け合っていく。
「んぅ……っ、いつ……ま……大好き……っ。ずっと……一生私を離さないでね……っ」
「あぁ、離すわけがないだろ。お前がどこへ行こうと、俺の手の中でしか生きられないようにしてやる」
夏の夜の静寂の中、二人の心臓の音だけが、永遠のように高鳴り続けていた。




