春のバーを越えて、歓声の中の独占欲
三月末、春の兆しが見え隠れするものの、肌を刺すような冷たい風が吹き抜ける縣立陸上競技場。
トラックとフィールドを取り囲む大きな観客席は、各校の応援団や保護者、そして報道陣の熱気で埋め尽くされていた。
今日行われているのは、春季縣陸上競技大會。
そのメインフィールドの一角、高跳び(ハイジャンプ)のピット前には、一段と大きな人集まりが出来ていた。
「――最後の一跳び、藍庭鷗賀選手(まなびや高中)! 記録、一メートル四十五!」
場内アナウンスが響き渡り、観客席からどよめきが起こる。
一メートル四十五。それは、女子中高生の選手層において、勝敗を分ける決定的な高さであり、彼女にとっての自己ベスト更新をかけた試技だった。
観客席の最前列で、手すりに肘を預けたままその光景を見下ろしていた俺――真名依真は、冷ややかな瞳でピットの中心に立つ少女を見つめていた。
セパレートタイプの鮮やかな陸上ユニフォームに身を包んだ藍庭鷗賀。
引き締まったしなやかな手足、腰から伸びる綺麗な脚のライン、そしてきゅっと結ばれたポニーテール。彼女が助走位置につくだけで、周囲の他校の男子選手や観客席の男たちが、羨望と好色の入り混じった視線を彼女に注いでいるのが分かった。
(……チッ、どいつもこいつもジロジロ見やがって)
胸の奥でどす黒い独占欲が渦巻く。
あの柔らかな肌も、汗ばんだうなじも、放課後や休日に俺の腕の中で甘い悲鳴をあげる声も――全部俺だけのものだというのに。こんな大勢の男どもの前にその肉体を晒している事実だけで、苛立ちが限界に達しそうだった。
その時、助走位置で深呼吸をしていた鷗賀が、ふと顔を上げ、一直線に俺のいる観客席へと視線を向けてきた。
大勢の歓声や応援の声を無視して、彼女の碧緑色の瞳は俺一人だけを射抜いていた。
彼女は胸元に小さく手を当て、唇を動かした。
『――見ててね、いつま』
口パクで送られてきた、俺だけの秘密の合図。
その瞬間、彼女の瞳から不安が消え去り、澄み渡った絶対の覚悟が宿るのを見た。
パンッ! と彼女が強く一歩を踏み出す。
滑らかな大きな弧を描く助走。一歩ごとに加速し、踏み切り板へと向かって一直線に踏み込んでいく。
(――踏み切り!)
地面を強く蹴り上げた瞬間、彼女の華奢な身体が重力を置き去りにして空へと舞い上がった。
綺麗な背面跳び(背面跳び)。背中をしならせ、アーチを描くようにして一メートル四十五の横バーを越えていく。滑らかな腰の引きつけ、そして足の抜き。
彼女の身体がマットの上に柔らかく落ちた瞬間――横バーはピクリとも揺れることなく、青空の下で静かに留まっていた。
『――成功!! 藍庭選手、一メートル四十五クリア!! 大會新記録達成です!!』
実況のアナウンスと同時に、競技場全体が割れんばかりの拍手と大きな歓声に包まれた。
陸上部の仲間たちが「やったぁぁ! 鷗賀ー!!」と叫びながらマットへと駆け寄っていく。
だが、マットから跳び起きた鷗賀は、駆け寄る顧問や部員たちの制止を振り切り、脇目も振らずにトラックを走り出した。
「えっ……お、鷗賀!? どこ行くの!?」
「インタビューがまだ……!」
周囲の困惑する声を背に受けながら、彼女が向かったのは――俺が立つ、観客席の最前列の下だった。
フェンス越しに、息を弾ませた鷗賀が俺を見上げる。
額に汗を浮かべ、胸を激しく上下させながら、彼女は観客席の俺に向かって両手を大きく広げた。
「いつま……っ! 跳べたよ! 一メートル四十五……跳べたよ……っ!」
全校生徒、他校の選手、そしてカメラを構える報道陣の視線が一斉に俺たち集中する。
俺は周囲の喧騒など意に介さず、フェンス越しに身を乗り出すと、彼女の細い手首を強引に掴み、そのまま自分の胸元へと引き寄せた。
「あぐっ……っ、いつま……!?」
「当たり前だ。俺の女が、この程度の高さでつまずいてたまるか」
俺は彼女の顎を指先で強く掬い上げると、何千人もの観客が見守る競技場の真下で、汗ばんだ彼女の熟した唇へと自分の唇を深く叩きつけた。
「んむ……っ!? ――ん、はぁ……っ!?」
場内が一瞬で静まり返り、次の瞬間に悲鳴のようなどよめきが沸き起こる。
だが、鷗賀は驚きに目を丸くしたのも束の間、すぐにうっとりと目を閉じると、フェンス越しに背伸びをして俺の首に腕を回し、全校生徒の前で狂おしいほどの返しのキスを深めてきた。
「んぅ……っ、いつ……ま……っ。私……いつまの視線があったから……跳べたんだよ……っ」
「知ってるよ。お前の一番の記録も、その体も、一生俺が独占してやるからな」
春の冷たい風が二人の髪を揺らす中、観客の羨望と嫉妬の視線を浴びながら、俺たちは世界で一番甘く、暴力的な『勝利の誓い』を交わし続けるのだった。




