雨の階段踊り場と、涙の先の解凍
ポツポツと窓を叩いていた雨音は、いつの間にか激しい土降りの豪雨へと変わり、薄暗い階段踊り場を打ちつけるような重低音で満たしていた。
「……いつま」
階段の下から上がってきた藍庭鷗賀は、真っ赤に腫れ上がった瞳で俺――真名依真を見つめていた。
数日間の冷戦で、彼女の頬は心なしか少し痩けて見え、いつもなら凛としている陸上部エースの面影はどこにもなかった。そこにいたのは、愛する男からの拒絶に怯え、ボロボロに傷ついた一人の小さな少女だった。
「お前……なんでここに……」
俺は冷たい壁に背中を預けたまま、低い声で問いかけた。だけど、その声は自分でも驚くほどかすれていた。
「いつまが、ここにいると思って……っ」
鷗賀は震える足取りで、一段、また一段と階段を上ってきた。
そして、俺のすぐ目の前で立ち止まると、溢れ出る涙を制服の袖で何度も拭いながら、押し殺した声で訴えかけてきた。
「私……やっぱり耐えられないよ……っ。いつまに無視されるのも、冷たい目でみられるのも、手をおしのけられるのも……胸が引きちぎれそうに痛くて……生きてる心地がしないの……っ!」
「……」
「ごめんなさい……! 私がバカだったの……。いつまが心配してくれてるって分かってたのに、意地を張って……隠し事なんてして……っ。部活なんて、陸上なんてどうでもいい……っ! いつまに嫌われるくらいなら、私、全部やめる……っ!!」
叫ぶように吐き出された、あまりにも不器用で、だけどまっすぐな彼女の叫び。
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥で固まっていた氷が、激しい音を立てて砕け散った。
(――俺は、なんてバカだったんだ)
自分の醜い独占欲と不安を誤魔化すために、一番守るべきこの子を、ここまで追い詰めていたなんて。
「……バカか、お前は」
俺は壁から離れると、一歩踏み出し、逃げようとした彼女の細い身体を――力任せに、だけど壊れ物を扱うような優しさで、強く抱きしめ寄せた。
「ひゃうっ……!? ――いつ、ま……っ!?」
ガバッと俺の胸の中に収まった鷗賀の身体が、驚きと安堵で大きく跳ね上がる。
俺は彼女の背中に両腕を回し、彼女の頭を俺の胸元へと強く押し付けた。彼女の髪から漂う、甘く懐かしい青リンゴの香りが、俺の狂いそうだった理性を静かに満たしていく。
「やめるわけないだろ。お前がどれだけ陸上を好きか、俺が一番よく知ってるんだよ」
「でも……っ、でもいつまが……っ!」
「俺が不安だったんだよ!!」
俺の叫びに、胸の中の鷗賀が息を呑んで静まり返った。
俺は彼女を抱きしめる腕にさらに強く力を込め、生まれて初めて、自分の格好悪い弱音を吐き出した。
「お前がどんどん綺麗になって、部活でも注目されて……俺の手の届かない遠いところに行っちゃうんじゃないかって……毎日怖くてたまらなかったんだよ。だから、意地を張って、お前を縛り付けるようなことばっかり言って……傷つけた……っ」
冷酷な主人公(俺)の、泥臭い本音。
それを聞いた鷗賀の瞳から、それまでの悲しみとは違う、あたたかい涙が洪水のように溢れ出した。
「いつま……っ、バカ……っ! 私がいつま以外の男の人に行くわけないじゃん……っ! 私の心も、体も、昔からずっと……いつまだけのものなんだよ……っ!」
鷗賀は俺の制服の背中をギュッと握りしめ、自分からつま先立ちになって俺の胸に強く身体を押し付けてきた。
「離さないで……お願いだから、もう二度と、私を一人にしないで……っ」
「あぁ、離さない。一生、死ぬまで離してやらない」
俺は彼女の顎を持ち上げると、窓外の雨音を切り裂くように、彼女の熟れた唇へと自分の唇を重ねた。
「んむ……っ!? ――ん、はぁ……んぅ……っ!」
数日間の沈黙と渇きを埋めるような、狂おしいほどの深い和解のキス。
お互いの舌が激しく絡み合い、涙の味が二人の口内で甘く溶けていく。鷗賀は俺の首に必死にしがみつき、二度と離れないというように、何度も、何度も唇を重ね返してきた。
「んむ……っ、いつ……ま……大好き……大好きだよ……っ」
「あぁ、俺もだ。愛してるよ、おうか」
雨の日の暗い踊り場で、二人の影はぴったりと一つに重なり合っていた。
初めて本気でぶつかり合い、お互いの弱さを晒し出せたからこそ、俺たちの絆はどんなチェーンよりも強固な『絶対の愛』へと進化を遂げたのだ。
俺は涙で濡れた愛おしい恋人の顔を優しく拭うと、二人で手を繋ぎ、新しい光が差し込み始めた階段を、ゆっくりと下りていくのだった。




