放課後の部室棟と、独占欲の境界線
秋の日は釣瓶落とし、とはよく言ったもので、放課後のグラウンドにはすでに長い影が落ち、夕闇が急速に校庭を浸食し始めていた。
「真名、ちょっといいか」
クラスの男子たちが下校の準備を進める中、陸上部の短距離ランナーである木村が、少し慌てた様子で俺――真名依真の席へと駆け寄ってきた。その表情には、いつものからかいの気配はなく、どこか緊迫した空気が漂っている。
「何だよ、木村。俺はこれから、部活終わりの鷗賀と帰る約束があるんだが」
「その藍庭のことだよ! さっき部活棟の裏を通ったらさ、陸上部をもうすぐ引退する黒岩先輩が、藍庭を第一体育館の裏にある『第二体育器材室』に呼び出してるのを見ちゃったんだよ……。あれ、どう見てもただの部活の連絡じゃない雰囲気だったぞ」
木村の言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥で、冷徹でどす黒い感情が静かに、だけど確実に鎌首をもたげた。
黒岩先輩。一学期から何度も鷗賀の跳躍フォームをチェックし、彼女に気さくに話しかけていた陸上部の元主将。修学旅行の時も、俺たちの『公開恋人宣言』を苦笑いで見つめていた男だ。
「……そうか。わざわざありがとな、木村」
「お、おい、真名……! 目がマジで怖いんだけど……。喧嘩だけはするなよ!?」
木村の静止の声を背中で聞き流しながら、俺はカバンを席に置いたまま教室を飛び出した。
放課後の古い木造の渡り廊下を、乱暴な足取りで進む。脳裏に浮かぶのは、あの純粋で無防備な俺の恋人が、夕闇の密室で他の男と二人きりになっているという、耐え難い光景だった。
(お前はもう、俺の女だって、あの京都の夜に、渋谷の街で、何度も身体に刻み込んでやったはずだろ、おうか)
第一体育館の裏手、普段は授業用のマットや跳び箱が乱雑に保管されている第二体育器材室。
古びた引き戸の前までたどり着くと、隙間から微かに二人の話し声が漏れて聞こえてきた。
「……藍庭。もうすぐ俺も引退だし、最後にどうしても、お前に伝えておきたいことがあったんだ」
「黒岩先輩……。あの、私、今は……」
「分かってる。真名と付き合ってるんだろ? クラスでの噂も、修学旅行の写真も見た。……だけど、俺はお前が陸上部に入ってきた時から、ずっとお前の跳ぶ姿を見てた。お前の真っ直ぐなところに、ずっと惹かれてたんだ。真名じゃなくて、俺じゃダメなのか?」
引き戸の向こうで、先輩が鷗賀の肩を掴もうとした気配がした。
その瞬間、俺の理性のリミッターは完全に消し飛んだ。
ガララララッ!!!
激しい音を立てて、俺は器材室の引き戸を力任せに開け放った。
薄暗い室内、埃っぽい空気の中に佇んでいた二人が、驚愕の表情で一斉にこちらを振り返る。そこには、突然の告白に困惑して涙目になっている藍庭鷗賀と、苦渋の表情を浮かべた黒岩先輩の姿があった。
「い、いつま……っ!? なんでここに……」
鷗賀が声を震わせる。
「真名……お前、部外者が何の用だ。今は俺と藍庭が話して――」
「部外者? 誰が部外者だって?」
俺は先輩の言葉を冷酷な笑みで遮ると、迷いのない足取りで二人の間に割り込んだ。
そして、怯えるように肩をすくめていた鷗賀の細い腰を、後ろから強引に引き寄せ、俺の胸板へとぴったりと密着させた。
「っ……いつま、みんな、見て……っ」
「黙ってろ、おうか。お前は俺の隣で、大人しく守られてればいいんだよ」
俺は彼女のポニーテールが揺れる頭を優しく、だけど拒絶を許さない力で俺の肩に押し付け、黒岩先輩を射抜くような鋭い視線で睨みつけた。
「黒岩先輩。あんたが引退間際にウチの彼女に何を言おうが自由ですがね、一つだけ勘違いしないでほしいんですよ」
「勘違い……だと?」
「こいつは、あんたがどれだけ長く見ていようが、最初から俺のものなんです。一学期のあのぬるい幼馴染のフリをしてた時も、京都の夜も、今も、これからもずっとだ。あんたが入り込める隙間なんて、この女の心にも身体にも、一ミリも残ってないんですよ」
「真名、お前……っ!」
先輩が悔しげに拳を握りしめる。だが、俺の胸にしがみつき、完全に俺の独占欲に身を委ねて顔を真っ赤にしている鷗賀の姿を見て、先輩はそれ以上、言葉を続ける力を失ったようだった。
「……そうか。藍庭、お前、本当に真名しか見えてないんだな」
「……はい。ごめんなさい、先輩。私は、いつまがいないと、もう生きていけないんです……っ」
鷗賀は俺の制服のシャツをギュッと握りしめ、はっきりと、だけど確かな拒絕を先輩に告げた。
先輩は深くため息をつくと、「……悪かったな。引退試合、見に来いよ」とだけ言い残し、逃げるように器材室を去っていった。
バタン、と重いドアが閉まり、再び器材室は完全な静寂に包まれた。
夕闇が差し込む、埃っぽい密室。残されたのは、怒りと独占欲で呼吸の荒い俺と、俺の胸の中でガタガタと震えている恋人の二人だけだ。
「いつま……怖かったよぉ……っ」
鷗賀は俺の胸に顔を埋め、子供のように涙をポロポロと流し始めた。
「怖かったなら、なんで最初から二人きりでこんな場所に来るんだよ。お前は俺の女だろ。他の男に言い寄られて、大人しく話を聞いてんじゃねえよ」
俺は彼女の細い肩を掴み、背後の跳び箱の山へとドサリと押し付けた。いわゆる『壁ドン』の形で、彼女の視界を俺だけで完全に塞ぐ。
「だって、先輩が最後にどうしてもって言うから……っ。でも、私はいつまのことだけが好きなのに……信じてよ……っ」
潤んだ瞳で、必死に無実を訴える鷗賀。
その必死な姿が、俺のドロドロとした支配欲をさらに刺激する。
「信じてほしければ、言葉じゃなくて、身体で証明してみせろよ」
俺は彼女の顎を指先で強く掬い上げ、夕闇に沈む器材室の中で、その熟れた唇へと自分の唇を、これまでにないほど激しく、深く重ねた。
「んむ……っ!? ……ん、はぁ……っ……いつ、ま……っ」
お互いの舌が激しく絡み合い、呼吸が奪われていく。
跳び箱の革の匂いと、彼女の身体から溢れる熱い青リンゴの香りが、密室の空気の中で濃密に混ざり合う。鷗賀は最初こそ驚いていたが、すぐに俺の首に両腕を回し、自分のすべてを俺の熱に明け渡すように、激しくキスを応じてきた。
「んむ……っ、はぁ……ん、いつま……大好き、いつまだけの、ものだから……っ」
唇を離すと、彼女は今にも泣き出しそうな、だけど完全に愛に溺れた顔をして、俺の胸に額を押し付けてきた。
「あぁ、分かってるよ。お前を他の奴に見せるのも、触れさせるのも、俺が絶対に許さないからな」
俺は真っ赤になって俺の腕の中で小さくなっている愛おしい恋人を、薄暗い器材室の中で、朝が来るまで何度でも、何度でも激しく愛し続けるのだった。




