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ミナミの雑踏と、離さないための十指の鍵

修学旅行二日目の午後。我が二年の御一行は京都を後にし、天下の台所・大阪へと突入していた。

道頓堀の巨大なカニの看板、ひしめき合う派手なネオン、そして行き交う人々の熱気と関西弁。お昼に本場のたこ焼きとお好み焼きをハシゴしたクラスの奴らは、完全にテンションが最高潮に達している。


「うわぁ……すごい人。東京の原宿ともまた違う活気だね、いつま!」


心斎橋のアーケード街を歩きながら、藍庭鷗賀あいにわ おうかが目を輝かせて周囲を見回していた。

今日の彼女は、白いサマーパーカーに黒のショートパンツ、そしてスニーカーという、陸上部らしいヘルシーな私服姿だ。朝のあの『同じ布団での大パニック』が嘘のように、今は大阪の街並みに夢中になっている。


「おい、あまりキョロキョロしてると迷子になるぞ。ここは地元民でもはぐれるレベルの雑踏だからな」

「大丈夫だよ! 私、陸上部だし、いざとなったら人混みを縫うように走るから!」


鷗賀はにひひと無邪気に笑い、お土産屋のディスプレイに吸い寄せられていった。

だが、俺――真名依真まな いつまの予感は、最悪の形で的中することになる。


大型のドラッグストアの前を通りかかった瞬間、向こうからやってきた修学旅行生らしき別の一団と、地元の大勢の買い物客が交差し、歩道が一気に大混雑した。

「うおっ、すげえ人の波……。おい真名、はぐれるなよ!」

クラスの男子に背中を押され、俺が数歩前に進まされた、その僅か数秒の間だった。


振り返ると――さっきまで俺のすぐ後ろを歩いていたはずの、あの黒いポニーテールが消えていた。


「……おうか?」


周囲を見渡すが、視界に入るのは見知らぬ他校の制服や、観光客の顔ばかり。

スマホを取り出して彼女に電話をかけるが、ガヤガヤとした街の喧騒のせいか、一向に出る気配がない。


(チッ……あのバカ、あれほど言ったのに)


胸の奥が、急速に冷たい焦燥感で満たされていく。

いくら身体能力が高かろうが、彼女のメンタルは『世界で一番失いたくない人』という防衛線を張るほど、本質的には臆病で繊細な女の子だ。こんな見知らぬ土地の雑踏に一人で放り出されれば、今頃パニックになっているに決まっている。


俺はクラスの連中の列から離れ、人混みを逆流するようにして走り出した。

周囲のノイズをすべてシャットアウトし、彼女の気配だけを探す。夏休みのプール、あの夕暮れの教室、旅館の布団の中――何度も何度も確かめ合った、あの甘い青リンゴの香りを、脳が必死に求めていた。


心斎橋筋から少し外れた、戎橋(ひっかけ橋)の近くのビルの陰。

自販機の横のスペースに、小さく身を縮めてスマートフォンの画面を何度もタップしている、見覚えのある後ろ姿を見つけた。


「……おうか」


息を切らせながら声をかけると、その身体がびくりと跳ね上がった。

振り返った鷗賀の瞳には、大粒の涙が今にもこぼれ落ちそうに溜まっており、その顔は不安で完全に青ざめていた。


「いつま……! いつま、いつま……っ!」


彼女はスマートフォンをポケットに放り込むと、俺の姿を見るなり、猛ダッシュで胸の中に飛び込んできた。

ドサリと、俺の身体が後ろの壁に当たるほどの勢い。彼女の細い両腕が、俺の背中に回され、千切れんばかりの強さで俺の服をギュッと掴みしめてくる。


「怖かった……っ、電話も繋がらないし、周りの人みんな知らない人だし、もういつまに会えないんじゃないかって……っ」

俺の胸元に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくる鷗賀。

普段は強気な陸上部のエースが、俺がいないというだけで、ここまで無防備に崩壊してしまう。


「バカ。だから言っただろ、はぐれるなって」

俺は彼女の細い肩を抱き寄せ、その柔らかい髪を優しく撫でた。

不謹慎だが、俺の胸の奥は、彼女のこの『俺がいなければ生きていけない』という強烈な依存心に、深い、深い悦びを感じていた。


「ごめんなさい……もう、いつまの言うことちゃんと聞くから……だから、置いていかないで……」

「置いていくわけないだろ。お前を俺以外の男の前に一人にするなんて、それこそあり得ない」


俺は彼女の涙を親指で拭うと、彼女の右手をそっと取り上げた。

そして、単なる『手を握る』のではない。お互いの指の股を深く噛み合わせるようにして、一本一本の指をガッチリと密着させる――完璧な『十指の恋人繋ぎ』の形を作った。


「っ……いつま?」

鷗賀が、涙の引いた瞳を驚きに染めて見上げてくる。


「もう二度とはぐれないように、今日の自由行動が終わるまで、この手は絶対に離さないからな」

「で、でも、これじゃあクラスの奴らとか、先生に見られたら……っ」


彼女はまたしても、あの『幼馴染の防衛線』を守ろうと言い訳を探し始める。

だが、俺は握りしめた指の力をさらに強め、彼女の逃げ道を完全に塞いだ。


「見られたら、付き合ってるって言えばいいだけだろ。それとも、またさっきみたいに、一人で迷子になって泣く方がいいわけ?」

「それは……嫌、だけど……」


「なら、大人しく俺に捕まってろ」

俺は彼女の手を引いて、再び心斎橋の賑やかな大通りへと歩き出した。


繋いだ手のひらから、彼女の熱い体温と、微かな震えが伝わってくる。

周囲の観光客や、同じクラスの女子グループが、俺たちのガッチリと結ばれた十指の手に気づき、「えっ、あ二人……!」とヒソヒソ声を上げているのが分かった。

だが、鷗賀はもう、その手を振りほどこうとはしなかった。むしろ、周囲の視線から隠れるように、俺の右腕に自分の身体をぴったりと寄り添わせて歩いている。


『世界で一番失いたくないから、一線を越えない』。

そんな彼女の頑なな願いは、この大阪の雑踏の中で、俺の圧倒的な独占欲によって、また一つ、綺麗に粉砕されたのだ。


俺たちは騒がしいミナミの街を、誰よりも密密な距離感で、しっかりと足元を確かめながら歩み進めていくのだった。

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