消灯時間の巡回と、一つの布団の中の熱
修学旅行の一日目が終わり、舞台は京都の老舗温泉旅館へと移った。
大浴場で温泉を堪能した生徒たちは、部屋ごとに集まってカードゲームに興じたり、恋バナに花を咲かせたりと、夜の非日常を満喫している。
夜の十時半。間もなく消灯時間というタイミングで、俺――真名依真は、自室の男子部屋を出て自動販売機へと向かっていた。
冷たいお茶のペットボトルを買い、静まり返った廊下を歩いていると、前方から見覚えのある姿が歩いてくるのが見えた。
「――あ、いつま」
そこにいたのは、お風呂上がりの藍庭鷗賀だった。
旅館の浴衣を身にまとった彼女は、髪がまだ少し湿っていて、湯気とともにふわりと甘い青リンゴの香りを漂わせている。いつもより少しはだけた胸元から覗く白い鎖骨が、薄暗い廊下の常夜灯に照らされて、ひどく艶めかしかった。
「おうか。お前も自販機か?」
「うん、ちょっと喉が渇いちゃって……。いつま、温泉入った? すっごく気持ちよかったよ!」
鷗賀は昼間のバスの中での出来事を思い出したのか、少しはにかみながら、浴衣の袖をぎゅっと握った。
その時だった。
廊下の曲がり角の向こうから、重々しい足音と、聞き覚えのある厳格な声が響いてきた。
「よし、これから二階の女子部屋の消灯チェックに行くぞ。時間を過ぎて起きている部屋は容赦なくペナルティだ」
(――ヤバい、学年主任の『鬼の鈴木』だ)
俺たち二人の背中に同時に冷や汗が流れた。
異性のフロアや廊下に消灯間際にいるのが見つかれば、明日からの自由行動は確実に剥奪、最悪の場合は説教部屋行きだ。
「ど、どうしよういつま……っ! あっちから先生が来るよ……!」
パニックになった鷗賀は、俺の手首をガシッと掴むと、すぐ目の前にある『自分の部屋』の襖を勢いよく開けた。
「いいから、こっち来て……っ!」
ずるずると引きずり込まれるようにして、俺は女子部屋へと連れ込まれ、静かに襖が閉められた。
そこは、鷗賀が一人で割り当てられている(あるいは同室の女子が別の部屋に遊びに行っている)四畳半の和室だった。
「ふぅ……っ、危なかった……」
鷗賀は襖に背中を預け、ホッとしたように胸をなでおろした。
だが、すぐに彼女は自分の状況に気づき、部屋の中央で立ち尽くしている俺を見て、再び顔を真っ赤に染めた。
「あ……。ご、ごめん、つい焦ってウチの部屋に引っ張り込んじゃった……。でも、ここ女子部屋だし、いつまがいたらもっとマズいよね……!?」
「あぁ、完全に密室の不法侵入だな」
ドタドタと、廊下を歩く先生の足音が、確実にこの部屋の前に近づいてくる。
トントン、と隣の部屋の襖が叩かれる音が聞こえた。もう逃げ場はない。
「次、藍庭の部屋いくぞ」
先生の声がドア越しに聞こえた。
「ひゃうっ!? いつま、隠れて! 押し入れ! それともテレビの裏!?」
「そんなベタな場所、真っ先に開けられるだろ。……おい、こっちだ」
俺は部屋の隅にすでに敷かれていた、一枚の『布団』へと視線を走らせた。
ふかふかの掛け布団がめくられている、鷗賀の寝床だ。
「え、ちょっと……待って、まさか……っ!?」
「我慢しろ。見つかったら終わりだぞ」
俺は彼女の手を引っ張り、一緒に布団の中へと滑り込んだ。
そして、頭からすっぽりと分厚い掛け布団を被り、外からはただ一人が寝ているように見えるように、彼女の身体を自分の胸の中に強く抱き寄せた。
ガラガラッ――。
「藍庭、入るぞ。……ん、もう寝ているのか?」
襖が開き、先生が部屋の中に足を踏み入れた。
布団の中は、一瞬にして完全な『濃密な密室』へと変貌していた。
畳の匂いと、鷗賀の身体から発せられる圧倒的な熱、そして、お風呂上がりの甘い香りが、掛け布団の狭い空間の中に充満して、俺の理性を狂わせる。
俺の胸の中にすっぽりと収まった鷗賀は、先生に気づかれないように、俺のTシャツを両手でぎゅっと握りしめ、必死に息を殺していた。
彼女の柔らかい胸が、俺の胸板にぴったりと押し付けられている。浴衣の薄い布地越しに、彼女のドクドクと激しく波打つ心臓の鼓動が、俺の身体にダイレクトに伝わってきた。
至近距離で見つめ合う、二人の瞳。
鷗賀の瞳は、恐怖と、そして男としての俺の肉体の近さに、完全に潤んでいた。彼女の熱い吐息が、俺の鎖骨のあたりを何度も何度も熱く濡らす。
(いつま……近い、近すぎるよ……っ)
声には出さない、だけど彼女の潤んだ瞳が、そう必死に訴えかけていた。
俺は彼女の腰に手を回し、さらにグッと自分の方へと引き寄せた。
これ以上ないほどの密着。お互いの足が布団の中で絡み合い、彼女の細い太ももの感触が、俺の肌を焦がすように熱い。
「……よし、しっかり寝ているな。明日の班行動も遅れるんじゃないぞ」
バタン、と襖が閉まり、先生の足音が遠ざかっていった。
完全に安全になったはずだった。
なのに――俺たちは、誰も布団から出ようとはしなかった。
薄暗い布団の中。外の冷えた空気とは裏腹に、二人の間の熱量は、限界を突破して膨れ上がっていた。
「……いつま」
鷗賀が、消え入りそうな小さな声で、俺の名前を呼んだ。
「もう、先生……行ったよ……?」
「あぁ、行ったな」
「じゃあ、早く離れてよ……。私、本当に、心臓が破裂しそうなんだから……っ」
彼女の目から、ポロリと熱い涙がこぼれ落ち、俺の胸元に染み込んだ。
俺は彼女の顎を指先でそっと掬い上げ、その真っ赤に熟れた果実のような唇をじっと見つめた。
「お前、さっきから『離れて』って言う割には、俺のシャツを掴む手が全然緩んでないぞ」
「それは……っ、だって、いつまが、離してくれないから……」
「言い訳の檻は、もう壊れたんだよ、おうか」
俺は彼女の耳元に唇を寄せ、昼間のバスの中よりも、さらに深く、甘い声を響かせた。
「失いたくないから恋人にならない? そんな子供騙しの理屈で、この熱から逃げられるとでも思ったのか?」
「……っ……」
鷗賀は声を失い、ただ、熱い吐息を漏らしながら俺を見上げていた。
彼女の瞳には、もう『お兄ちゃん』を見る目は一ミリも残っていない。ここにいるのは、一人の男の独占欲に、身体も心も完全に降伏した、一人の恋する女の子の顔だけだった。
俺は彼女の涙を親指でそっと拭い、誰も見ていない薄暗い布団の中で、彼女の小さな身体を、さらに深く、強く、抱きしめ直した。




