秋風の修学旅行と、バスの特等席
十月に入り、校庭の木々が鮮やかな赤や黄色に染まり始める頃。
二年生の一大イベントである、二泊三日の『京都・大阪修学旅行』の朝がやってきた。
早朝の駅前ロータリーには、大きなキャリーバッグを引いた生徒たちが、いつもとは違う私服姿で興奮気味に集まっている。
「おい真名! お前、トランプ持ってきたか? 夜の部屋移動、絶対俺たちの部屋に来いよな!」
「あぁ、気が向いたらな」
クラスの男子たちとそんな適当な会話を交わしながらも、俺――真名依真の視線は、少し離れた場所にいる一人の少女に釘付けになっていた。
藍庭鷗賀。
今日の彼女は、ベージュのサマーニットにデニムのタイトスカートという、大人っぽいカジュアルな私服姿だった。いつも部活でポニーテールにしている髪は、ハーフアップにまとめられており、うなじの白さが秋の澄んだ空気の中で際立っている。
私服姿の彼女を見るのは、あの夏休みの最後のデート以来だ。
「いつま! おはよ!」
鷗賀がこちらに気づき、キャリーバッグを転がしながらパタパタと駆け寄ってきた。
「おはよ。……お前、その格好、ちょっと寒くないか?」
「え? そうかな? 京都は歩くって聞いたから、動きやすさ重視にしたんだけど……変、かな?」
鷗賀は少し不安そうに、スカートの裾をもじもじといじった。
「変じゃない。……むしろ、ちょっと可愛すぎて他の奴らに見せたくないくらいだ」
「なっ――!?」
朝一番のストレートな言葉に、鷗賀の顔が一瞬で真っ赤に染まる。
「も、もう! 朝からそういうこと言うの禁止! ほら、バスの乗車が始まるよ!」
彼女は照れ隠しに俺の背中をバシバシと叩きながら、クラスの移動バスへと向かっていった。
修学旅行の移動バス。その座席決めは、事前にクラスの「くじ引き」で行われていた。
だが、俺の席は――当然のように、鷗賀の隣、窓側の一番後ろの二連席だった。
もちろん、今回も席替えの時と同様、事前にくじを引いた男子に「京都限定のお土産を奢る」という条件で、あらかじめ席を交換させておいたのだ。
バスに乗り込み、俺が彼女の隣の席に腰を下ろすと、鷗賀は窓の外を見ていた顔を驚愕に染めて振り返った。
「えっ!? いつま!? なんでここ……私の隣、確か木村くんだったはずじゃ……」
「木村なら、八ツ橋(京都名物)3箱と引き換えに前の方の席に移ったよ。お前の隣を他の男に譲るわけないだろ」
「また職権乱用した……!」
鷗賀は呆れたようにため息をついたが、その口元はどこか嬉しそうに綻んでいた。
大型バスがゆっくりと動き出し、高速道路へと入っていく。車内では、男子たちが早くもお菓子の交換を始め、女子たちの笑い声が響く、典型的な修学旅行の賑やかさで満たされていた。
数時間が経ち、バスが滋賀県に入ったあたりで、車内の熱気も少し落ち着き、仮眠をとる生徒が増え始めた。
カーテンが閉められた薄暗い車内。心地よい小刻みな揺れが、眠気を誘う。
「ふぁ……なんか、眠くなってきちゃった……」
鷗賀が小さなあくびを漏らし、ウトウトと頭を揺らし始めた。
やがて、彼女の意識が完全に眠りに落ちた瞬間――。
トントン、と、彼女の軽い頭が、俺の右肩の上に預けられた。
「――っ」
肩に伝わる、彼女の柔らかな頭の重み。
そして、ハーフアップにされた髪から、あの懐かしい、だけど少し深みを増した青リンゴの香りが、俺の鼻腔を優しくくすぐる。
俺は左手を伸ばし、彼女が寒がらないように、俺の着ていた上着をそっと彼女の膝の上にかけてやった。
そして、肩に寄りかかる彼女の寝顔をじっと見つめる。
無防備に少し開いた唇、長い睫毛。
学校にいる時は『ただの幼馴染』のフリをして強がっている彼女も、こうして二人きりの、誰も見ていない(周囲の奴らは全員寝ているか前を向いている)空間では、完全に俺に身を委ねていた。
「おうか」
俺は彼女に聞こえないくらいの小さな声で名前を呼び、そっと自分の左手を、彼女の膝の上、上着の下へと滑り込ませた。
上着の目隠しの下で、俺の指先が、彼女の細くて柔らかい指先に触れる。
そして、一本一本の指を絡めるようにして、深く、強く、恋人繋ぎの形で彼女の手を握りしめた。
「……んぅ……っ」
睡眠の浅い鷗賀が、手のひらの熱さに微かに眉を寄せ、小さな声を漏らした。
だけど、彼女は目を覚ますことなく、むしろ俺の手の温もりを求めるように、ギュッと俺の手を握り返してきたのだ。
寝ていても、彼女の身体は俺を求めている。
『世界で一番失いたくない人』なんていう理屈の壁は、彼女の本能の前では、もう何の役にも立っていなかった。
バスは京都へのカウントダウンを進めていく。
これから始まる二泊三日の非日常。他の奴らの目がどれだけあろうと、俺はお前を、俺だけの特別から解放してやるつもりはない。
俺は肩に寄りかかる彼女の手をさらに強く握り締めながら、窓の外を流れる秋の景色を、満足げに見つめ続けていた。




