【第1話④】石橋を叩いて、渡らない
……というのが、数か月前の話である。
あの獣顔の神は、いつか必ず探し出して、一発だけ殴らせてもらう。愛の神を名乗るなら、それくらいの愛は受け止めてもらいたい。
もっとも、その決意は日ごとに薄れていく。何しろこの世界、通貨の単位が「ゼクク」なのだ。殴りたい相手の名前が、財布の中身として毎日出入りする。おかげで恨みが、生活にすっかり埋もれてしまった。
そして、現在。俺は剣と魔法の異世界で、「勇者ああああ」という名を背負わされたまま生きている。
元のゲームについて俺が見たのは、タイトル画面と名前入力欄だけ。攻略情報も事前知識も、ない。それでも断言できる。この世界は、たぶんまともなRPGではない。名前は変えられず、物価は理不尽で、ギルドの受付台にはなぜかミスリル製のキーボードが鎮座している。だいたい、初日にワイバーンが出てくる時点でおかしいのだ。
あの崖で起きたことについても、俺なりに考えた。
初級魔法で、地形は削れない。あれはどう見ても普通ではない。そして、普通ではない力を持つと知られた人間がどう扱われるかくらい、想像はつく。まず、自由がなくなるだろう。
だから俺は、冒険者ギルドにEランクで登録した。請けるのは、荷運び、水汲み、溝さらい、薬草採り。体力と知恵と段取りで片がつく仕事ばかりを、黙々と重ねている。勇者として召喚された事実は誰にも話していないし、ワイバーンの鱗も、出所を説明できないまま、まだ懐で眠らせている。
誰ともつるまず、目立たず、ひっそり生きる。それが性に合っているし、それでこそ平穏というものだ。
――そのはずだった。
三日前のことだ。
依頼の麻袋を肩に担ぎ上げた瞬間、視界の端が白く霞んだ。
膝が笑う。荷が肩から滑る。慌てて抱え直したところを、通りがかりの受付嬢に見られた。
「大丈夫ですか?」
「……ああ。荷が、思ったより重かっただけだ」
そう答えて、それきりだった。
嘘ではない。だが、正確でもない。
最近、わけもなく体が重くなる日があるのだ。朝、起き上がろうとすると立ちくらみがする。手足から力が抜け、慣れたはずの荷物がずしりとこたえる。一日横になっていれば治まる。だが数日すると、また来る。
あの力の反動だろうか。それとも、この世界特有の何かか。
医者にかかることも考えた。だが、原因の分からない不調を訴えれば、身元を詮索される口実を与えることになる。「あんた、どこの生まれだ」と聞かれたとき、俺には答えられる故郷がない。
危機察知の勘だけは、昔から働くほうだ。そして今、それがかすかに何かを訴えている。
――この「だるさ」を、放っておくとまずい。
だが、原因は分からない。ヒントもない。神は、何ひとつ説明してくれない。
ふと、あの暑苦しい声が耳の奥で蘇った。
――愛され、求められ、逃げられぬほどに包まれるであろう。
……関係ない。
俺の周りには、誰もいないのだから。
ひとりは、気楽でいい。石橋を叩いて、ヒビを確認して、渡らない。それが俺の生き方だ。この世界でも、そのやり方で十分やっていける。
結論から言えば――このだるさを、ただの魔法の反動だと考えたことが、根本的な間違いだった。
勇者の力を抱えたまま、この世界で「ひとり」でいることが、いったい何を意味するのか。
この時の俺は、まだ、ちっとも分かっていなかった。




