【第1話③】疲れているだけだ
つま先のすぐ先で、地面が終わっていた。眼下は、白い霧に呑まれた谷底。深さは分からない。分からないほうが、たぶん、精神衛生にはいい。
背後で、ワイバーンが着地した。地面が揺れる。振り返れば、翼を畳んだ飛竜が、逃げ場を失った俺を値踏みするように見下ろしていた。黄金の瞳に映る自分は、きっと、ひどい顔をしている。
逃げ場がない。武器もない。戦う手段も、ない。
――ないはずだった。
けれど、追い詰められた体の内側で、何かが勝手に動いた。
心臓の奥、もっと深い場所から、熱が噴き上がる。知識にも経験にもないその感覚は、理屈を飛び越えて、まっすぐ指先へ集まっていった。
半ば本能で、前へ手を突き出していた。
頭にあったのは、初級魔法。それも、この手の物語で最初に覚える、一番弱そうなやつだ。
――頼む。何でもいい。何か出てくれ。
叫んだのか、祈ったのか、自分でも分からない。たぶん、両方だった。半泣きだったことだけは、確かだ。
光が、弾けた。
視界が白く潰れ、遅れて轟音が来た。衝撃で足をすくわれ、俺は無様に尻もちをつく。土砂と砂埃が舞い上がり、世界が茶色く濁った。
やがて風が砂を払い、目の前の光景があらわになった。
嘘だろ。
地形が、変わっていた。
俺とワイバーンの間に、幅数メートルの亀裂が走っている。岩盤が抉れ、崖の縁が崩れ、剥がれ落ちた土砂が白い霧の底へと吸い込まれていく。遠くではまだ、岩の落ちる音が続いていた。
ワイバーンが甲高い悲鳴を上げ、大きく翼を広げて後退する。牙を剥きはしたものの、足もとの亀裂を越えてくる気配はなかった。
数秒。あるいは、数十秒。
飛竜は低く唸ると、身を翻し、そのまま飛び去っていった。
……あとに残されたのは、崩れた崖と、それをやらかした張本人だけだった。
膝から力が抜け、その場にへたり込む。
心臓が、まだうるさく鳴っていた。
そのまま、どれくらい座り込んでいたか分からない。
指の震えがようやく止まった頃、俺はのろのろと立ち上がった。その足もとで、何かが日差しを跳ね返した。
鱗だった。
大人の手のひらほどもある、青灰色の一枚。爆風で剥がれたものが、そこに落ちていた。
少し迷ってから、拾って懐に入れる。
見知らぬ世界。無一文。頼れる相手なし。売れそうなものは、拾っておくに越したことはない。
――そういう計算ができる程度には、俺はもう冷静だった。あるいは、冷静になるしかなかった。
空を見上げる。
どこまでも青い、知らない世界の空だった。
――その青が、一瞬、白く滲んだ。
指先には、あの熱の残りかすのような感覚が、まだじんじんと残っている。全身から力が抜けたような、妙な軽さだった。
瞬きをすると、空は元の青に戻っていた。
……疲れているだけだ。
そう結論づけた。




