【第1話②】チュートリアルは、ありません
「うむ、よい声量であるぞ。勇者の素質を感じる」
「声量の話はしていない」
俺は深く息を吸い、できるだけ冷静に言った。
「聞いてくれ、筋肉――いや、神様」
「ワシは愛の神ゼクク。この世界の愛と運命を司る、偉大なる――」
名乗りの途中で、気づいた。
頭のてっぺんから、もふもふとした獣の耳が生えている。顔つきも、どこか獣じみていた。
愛の神。獣耳。筋肉。
どこから手をつければいいのか、まるで分からない。
「愛の神が雷をバリバリ鳴らすのは、管轄違いじゃないのか」
俺の声は、間の悪い雷鳴にあっさりとかき消された。
……だめだ。会話が成立する相手じゃない。
これは、台風や地震と同じ種類の存在だ。
文句を言うより、過ぎ去るのを待つほうが早い。
ゼククは満足げにうなずくと、丸太のような指を一本立てた。
「最後に、餞別だ。よく聞け、勇者ああああ」
「お。ようやくまともな説明か」
「たとえ汝が筋金入りのぼっちであろうと、案ずることはない」
「……初対面で言い当てられると、地味に傷つくな」
「この世界では、いずれ汝も愛される」
「……は?」
「愛され、求められ、逃げられぬほどに包まれるであろう」
――今、最後だけ、妙に圧がなかったか。
「愛される」の部分より、「逃げられぬ」のほうに、明らかに重心があった。祝福というより、宣告に近い響きだ。
「ぬはは。すべては愛よ!」
「待ってくれ。今の不穏な単語、回収していかないのか」
「では行け、勇者ああああよ。汝の冒険に、愛のあらんことを」
「待て。説明。チュートリアル。せめて状況の整理だけでも――」
視界が、真っ白に染まった。
その白の向こうに、遠く、ノイズ混じりの文字が浮かび上がる。
【システムメッセージ】
『ラブゼククエスト』を、はじめます。
チュートリアル……なし。
初期装備……なし。
ヒント……なし。
幸運を、お祈りします。
(※神さまからの追加説明は、ありません。)
……最後の一文だけ、妙に突き放されている気がした。
気のせいだと、思うことにした。
白が晴れたとき、俺は見知らぬ荒野に立っていた。
足もとは赤茶けた岩場。丈の低い草が地を這うように広がり、その先で地面は唐突に途切れていた。切り立った崖だ。空は抜けるように青く、乾いた風がごうごうと鳴っている。
仮にここがゲームの世界だとするなら、今の俺は初期レベルの丸腰勇者ということになる。やるべきことは、一つしかない。
――退路の確認。
そう思って振り返った瞬間、空気が変わった。
風が、止まった。いや、遮られた。
頭上から、影が降ってきた。
巨大な翼が空を裂き、熱を帯びた息が頬を焼く。見上げた視界を埋めたのは、鱗と、牙と、爬虫類じみた黄金の瞳。
ワイバーン。
初期レベル、装備なし、仲間なしの人間が、最初に出くわしていい生き物では断じてない。
……チュートリアルもなしに幸運を祈られた理由が、今、身に染みて分かった。
考えるより先に、体が動いていた。
走る。とにかく走る。長年、道場で嫌というほど叩き込まれたのは、受け身と、足運びと、間合いの取り方だ。段位はこういう時のために取ったわけではないと思うが、体は勝手に、最短の逃げ道を選んでいた。
ワイバーンの影が、地面を這って俺を追い抜いていく。翼の一振りが起こす風圧だけで、背中を突き飛ばされる。
爪が岩を抉る音。
近い。
口の中に、鉄の味が広がった。肺が焼ける。それでも足は止まらなかった。振り向いたら終わりだと、体のほうが知っていた。
自分の脚が、こんなに速く動いた覚えはない。
――そして、追い込まれた先が、崖だった。




