【第8話③】わたしが、そうしたいんです
「…………は?」
「あ、あの、お客様……わたしの名前、どこかでお聞きに……? わたし、その、料理人の『みかん』と申しますが……」
名前だった。
この猫耳料理人の名前が、『みかん』だった。
さっき聞き取れなかった、自己紹介の尻すぼみになった部分。あれが「みかん」だったのだ。
つまり今、俺は。
初対面の女性の名前を叫びながら、「どうしてもほしい」「いますぐほしい」と、火照った顔で、ぎらついた目で、全力で要求した男に、なっている。
「ち、違うんだ! 俺が言ったのは果物の方の――」
弁明しようとした俺の顔を見て、みかんさんは、ひっ、と小さく息を呑んだ。
無理もない。今の俺の顔は、スタミナ特製定食の効能により真っ赤に火照り、目は爛々と輝いているのである。どこからどう見ても、据わった目で女性に迫る危険人物の顔だ。
「で、でも、その……」
みかんさんは、真っ赤になった顔をうつむかせ、もじもじと指を絡ませた。猫耳が、恥ずかしさを誤魔化すように、ぴこぴこと忙しなく動いている。
「……そんなに熱烈に、わたし自身をご指名いただいたのは……初めて、ですし……」
「いや、だから、指名では」
「お客様、スタミナ料理で、だいぶキツそうですし……。このまま放っておくわけにも、いきませんし……」
「キツそうなのは事実だが原因はあなたの定食なんだ!」
俺の決死の訴えは、しかし、火照った顔と爛々とした目のせいで、説得力が完全に死んでいた。むしろ「限界の男の必死の懇願」にしか聞こえていない。
みかんさんは、しばらく、うー、と唸りながら逡巡していたが――やがて、意を決したように顔を上げた。
潤んだ瞳。真っ赤な頬。それでも、目の前の客を放っておけない、生真面目な料理人の顔で。
「……し、仕方ないですね。……奥の、隣の部屋に……来てくださいっ」
差し出された手が、小さく震えていた。
指先だけではない。耳は伏せられ、尻尾も落ち着きなく揺れている。
……この人は、俺より怖がっている。
「待ってください」
俺は、その手を取らなかった。
「無理なら、しなくていいです。俺は大丈夫ですから」
みかんさんは、ふるふると首を振った。
「無理じゃ、ないです」
伏せていた耳が、ゆっくりと起きる。
「わたしが、そうしたいんです。……だめ、ですか?」
だめなわけがなかった。
……一瞬だけ、緑髪の顔が頭をよぎった。
が、「ハーレム枠(仮)」などという表示を平然と出してくる世界の倫理観が、そもそもどうなっているのか、俺には分からない。
分からないことを言い訳にして、俺は差し出された手を取り、襖の奥へ消えた。
……何があったかは、語るまい。
◇
すべてが終わった後。
隣の部屋は、静かだった。
行灯の火が、じじ、と小さく鳴る。障子の向こうから、遠く、店の喧騒が届いていた。誰かの笑い声。杯の触れ合う音。三味線に似た弦の響き。
そのどれもが、この部屋には入ってこない。
布団の上で、俺は天井の木目を数えながら、さっきまでのことを、順番に思い返していた。
義理でも、治療でも、なかった。
不器用同士だった。手順なんて、どちらも知らなかった。それでも、みかんさんは終始、俺の心配ばかりしていた。苦しくないか。痛くないか。無理をしていないか。自分こそ震えているくせに、こちらの様子ばかり気にして、そのたびに、柔らかく、包むように受け止めてくれた。
……料理を出す時と、まったく同じ顔だった。
相手が満たされるところを、じっと見守っている人の顔。
それが、いちばん、参った。
◇
畳の匂いと、出汁の残り香と、体温。
右の肩口が、じんわりと温かい。灰色の耳が、そこで小さく上下している。
起きているのは、分かっていた。呼吸のリズムが、明らかに寝ている人のそれではない。
「……あ、あの」
やっぱり起きていた。
「な、なんでしょう」
敬語になる俺。
「その……お客様は、わたしのことが、……?」
「えっ」
「だって、あんなに……ほしいほしいって……」
頬を染めてそう言われた瞬間、喉まで出かかっていた「あれは果物のことで」という真実は、音もなく崩れ落ちた。
言えない。この期に及んで「果物と間違えました」は、あまりにも、あまりにもだ。
「……はい。大好きです」
俺は、魂を売った。




