【第8話②】どうしても、みかんがほしい
通された座敷は、畳敷きの落ち着いた個室だった。
行灯の柔らかな灯り。床の間には掛け軸。低い卓と、座布団。完全に和室である。
やがて、襖を開けて現れたのは――
「い、いらっしゃいませ。本日のお料理を担当します……」
猫耳の女性だった。
ふわふわの灰色の耳と、同じ色の太い尻尾。栗色の柔らかそうな髪に、編み込みがひとつ。からし色の作務衣に、同色の帯。
頬をほんのり染めて、おずおずと頭を下げるその姿は、いこい亭の妖しい看板からは想像もつかない、素朴で家庭的な雰囲気をまとっていた。
名前を聞き取ろうとしたが、緊張のせいか、彼女の声は尻すぼみで、肝心の最後がよく聞こえなかった。聞き返すのも悪い気がして、俺は曖昧に頭を下げ返した。
これが、のちに致命傷となる。
「本日は『スタミナ特製定食』をご用意しました。どうぞ、ごゆっくり」
卓に並べられたのは、湯気の立つ土鍋、照りのいい焼き物、山盛りの飯、汁物、小鉢の数々。
一口、食べる。
「……!」
うまい。
体の芯から染みわたるような、出汁の深い味。焼き物は香ばしく、肉は柔らかく、飯が止まらない。日雇い続きの体に、栄養が音を立てて吸収されていく。
俺は無言で、ひたすらに食った。屋台の串と硬いパンで生き延びてきた俺にとって、それは久しく忘れていた「ちゃんとした飯」だった。ちょっと泣きそうになった。
そして、完食。
「……お粗末さまでした。『スタミナ特製定食』、お口に合いましたか?」
猫耳の料理人が、さっきまでの緊張はどこへやら、少し得意げな顔でこちらを見ている。
たしかに、うまかった。文句なしに、うまかった。だが。
食い終わってから、じわじわと気づく。
とろろ。うなぎに似た焼き魚。にんにくの効いた肉。すっぽんらしき土鍋。生姜。卵。
……精のつくものばかりでは、ないか?
考えてみれば、当然だった。ここは汚染値管理の公式施設。客の「活力」を整えるのが商売だ。定食ひとつ取っても、その方向に全力なのである。
体が、かっと熱い。顔がほてる。心なしか、脈が速い。
誰に向けた効能なんだ、この定食は。
「さて……食後のデザートは、いかがなさいますか?」
猫耳の料理人は、両の手のひらにひとつずつ、何かを載せて差し出してきた。
「『コガネの実』と『アカミの果実』。どちらも、今日のおすすめです」
俺は、目を見張った。
左手に、つやつやと光る、橙色の丸い果実。
右手に、赤く艶めく、見覚えのありすぎる果実。
みかんと、りんごである。
名前こそファンタジー風に呼ばれているが、どこからどう見ても、みかんとりんごだった。
懐かしさが、胸の奥から津波のように押し寄せてきた。
こたつの上のみかん。風邪をひいた時に剥いてもらったみかん。受験勉強の夜食のみかん。
脳内に、選択肢ウィンドウが浮かぶ。
【選択肢】
どちらをえらぶ?
みかん(コガネの実)
りんご(アカミの果実)
選択の余地など、なかった。
スタミナ料理で火照った体と、決壊した郷愁とが、俺の口から魂の叫びを迸らせた。
「お願いだ、どうしても『みかん』がほしい!! いますぐ『みかん』がほしいんだ!!」
……。
静寂。
猫耳が、ぴーん、と跳ね上がった。
「えっ……!? ちょ、ちょっと、お客様……!?」
料理人は二つの果実を慌てて卓へ置くと、胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、わなわなと震え始めた。
「み、みかんって……わたし、ですか!?」




