【第7話④】財布だけで済んだなら
翌朝。
俺は、いこい亭の重い扉に手をかけ、よろよろと外に出た。
朝の光が、目に痛い。頭が、ずきずきと痛む。
脳内に、見たくもないウィンドウが浮かぶ。
【ご請求】
・特製酒 ×12
・つまみ盛り合わせ ×5
・おすすめ料理 ×3
・女将のお相手代
最後の一行だけ、文字が、やけに濃い。
【システムメッセージ】
どうやら、キリカが、ほとんど一人で飲み干したらしい。
……特製酒、十二本。あの細い体の、いったいどこに入るんだ。
日雇いで稼いだ日銭も。ギルドから受け取った一次報酬の四百ゼククも。一晩で消えた。
経費で落ちるだろうか。……落ちるわけがない。「女将のお相手代」と書かれた領収書を、あの親父の前に出すのか。俺が。カリンさんのいる受付で。
想像しただけで、報告書の端が燃える光景が見えた。
だが、金より痛いものがある。
昨夜、俺が持ち帰った情報は、ゼロ。
昨夜、あの女将が持ち帰った情報は――俺の生まれが言えないこと。体が雑用屋のそれではないこと。事件を嗅ぎ回っていること。
聞き込みに行って、聞き込まれたのは、俺のほうだった。
その場にくずおれそうになった、そのとき。
「――昨夜は、ずいぶんお楽しみだったようで。……ひひっ」
扉の陰から、緑髪が、ぴょこりと覗いた。
メロンである。いつものサメ歯を全開にして、心底愉快そうに、こちらを見上げている。
「お前……どこ行ってたんだよ。入口まで付き合うって、言っただろ」
「言ったぜ。『入口まで』な。『中まで』とは、言ってねぇ」
「……お前な」
「で? 女将のお相手は、どうだった? ご指名まで、しちゃってよぉ。やるじゃねぇか」
「指名は事故だ! 口が滑ったんだよ! ……というか、お前。最初からこうなるって分かってて、消えたな!?」
「さあなぁ。ま、キリカと差し向かいで朝まで飲んで、生きて帰ってこれたんだ。それだけで、上等だぜ。……財布だけで済んだんなら、むしろ、安いもんさ」
……笑えなかった。
財布だけで、済んでいない。俺は昨夜、財布と一緒に、自分の急所の在処を二つ、あの卓の上に置いてきた。
それでも――喋らされはしなかった。生まれも、体のことも、最後の一線は渡さなかった。……渡さなかった、はずだ。酔いつぶれる直前の記憶に、その保証はないのだが。
「なあ、メロン。キリカって……何者なんだ」
メロンは一瞬だけ、いつものふざけた笑みを、引っ込めた。
「……『情報が欲しいなら、まず彼女に会え』。この街じゃ、そう言われてる。ま、お前みたいなのが首を突っ込むには、あの店はちょいと――深すぎるかもなぁ」
メロンは、それだけ言うと、くるりと踵を返した。
「とりあえず、宿代だ。働いてこい、公式サイフ」
「お前も稼げ!」
俺の抗議を背中で受け流すと、メロンは、朝の街へ駆けていった。
ひとり残された俺は、空っぽの財布を開いた。
石ころが一個と、孤児院の子どもたちにもらった、小さなお守り。
……金にならないものだけが、また残った。
あの店には、この街の噂と、人の弱みが、すべて流れ着いている。そしてその中心に座る女将は、衰弱事件について、確実に、何かを知っている。
もう一度、あののれんをくぐらなければならない。
――今度は、一問も、払わずに。




