【第7話③】一問、一杯
奥の間は、行灯がひとつだけの、薄暗い座敷だった。
卓を挟んで、キリカが猪口に酒を満たす。とく、とく、と、水音だけがやけに響いた。
「ほら、一杯」
「いえ、俺は――」
「話ってのは、喉が湿ってからのほうがいいのさ。それとも、女将の酌が受けられないってのかい?」
断る理屈を探すより早く、猪口が手の中に収まっていた。
……一杯だけだ。一杯で、本題に入る。
舐める程度に口をつけて、俺は切り出した。
「単刀直入に聞きます。最近、街で若い男が立て続けに倒れてる。傷はなく、財布も無事で、ひどく衰弱して。……この店で、何か聞いていませんか」
キリカは、猪口を口元に運ぶ手を、止めなかった。
「ふうん。物騒な話だねえ」
それだけだった。驚きも、否定も、ない。
「心当たりは」
「さあ。うちは酒と飯と、癒やしを売る店だよ。物騒なのは扱ってないねえ。――ああ、そうだ。ちょうど、いい肴が入ってるんだよ」
ぱん、と手を打つと、襖の向こうから小鉢が運ばれてきた。話の腰が、綺麗に折れる。
……逸らされた。
だが、まだ一合目だ。肴をひと箸つけて、俺は仕切り直した。
「倒れた男の中に、この店の客がいたという噂があります」
その時、初めて、キリカの猪口が卓に置かれた。
こと、と小さな音。
琥珀色の瞳が、まっすぐこちらを見た。
「……お客さん。人に聞く前に、名乗るのが筋ってもんじゃないのかい」
「ギルドで調査依頼を受けている、ただの冒険者です」
「そうじゃないよ」
キリカは笑った。口元だけで。
「あんた、どこの生まれだい?」
――心臓が、一拍、跳ねた。
「王都の訛りじゃない。港町の訛りでもない。あたしはこの商売が長くてね。客の生まれは、だいたい三言で分かる。……あんたの喋りは、どこの訛りでもないんだよ。そんな客は、初めてだ」
「……田舎の、山奥です。地図に載らないような」
「へえ。なんて名前の村だい」
答えられない。この世界の地名を、俺は数えるほどしか知らない。適当な名を出せば、次の三言で剥がされる。
黙った俺の猪口に、キリカは、とく、と酒を注ぎ足した。
「ま、いいさ。言いたくないことは、誰にでもある」
責めない。それが、いちばん怖かった。
彼女は答えを要らないのだ。俺が答えられなかった、という事実だけを、帳面のどこかに書きつけている。そういう顔だった。
俺は、注がれた酒を飲んだ。飲まないと、間が持たなかった。
……あとから思えば、この夜の勝敗は、ここで決まっていた。
彼女の防ぎ方は、盾ではなかった。俺が一問踏み込むたび、彼女も一問、踏み込んでくる。そして俺の質問は躱せても、俺は彼女の質問を躱せない。躱すたびに酒を飲み、飲むたびに口が緩む。
一問、一杯。
交換レートは、最初から俺の大負けだった。
それでも、粘った。
何杯目かの酒の向こうで、俺は搦め手を試した。事件と言わず、世間話の顔で近づく。
「……最近、物騒だと、井戸端でも聞きますよ。若い男は夜歩きするなとか」
「若い男ってのは、言われたって歩くのさ。無茶をするのが仕事みたいなもんだからね」
キリカは酒を含んで、ふ、と遠くを見た。
「……ま、無茶にも、種類があるけどねえ」
来た。今、何かの縁に触れた。
「種類、というと」
「さてねえ。――それより、お客さん」
するり、と話が手の中から抜けた。そして次の瞬間、彼女の視線が、俺の肩から腕へ、品定めするように滑った。
「あんた、いい体をしてるね」
「……は?」
「雑用と荷運びの体じゃないよ、それは。荷運びの筋肉ってのは、もっと偏るもんさ。あんたのは、偏ってない。……まるで、全部の目盛りが振り切れてるみたいだ」
背筋が、凍った。
酔いが、一瞬で引いた。
この女は、見ている。何杯注いでも、何を笑っても、その目盛りだけは狂わずに、俺を測り続けている。
勇者ああああ。規格外のステータス。誰にも話していない、この体の中身を――着物越しに、指先でなぞられた気がした。
「……鍛え方が、良かったんでしょう」
声が、掠れなかったのは奇跡だと思う。
「ふふ。そうかい」
キリカは、それ以上踏み込まなかった。
踏み込まないことが、答えだった。今夜はここまで、と彼女の側が決めた。それだけのことだった。
「まあまあ、若いんだから飲みな。これがまた、酒が進む話でねえ――」
そこから先の記憶は、霧の中だ。
覚えているのは、行灯の火が滲んでいく感覚と、途切れ途切れの笑い声と、空になっていく小瓶の数と。
最後に、霧の底で、女将がぽつりと言った気がする。
「……ほんとうに。もっと早く、来ればよかったものを」
誰に向けた言葉だったのか。俺だったのか、別の誰かだったのか。
それを確かめる前に、意識は落ちた。




