【第5話④】二回目は、急ぐ理由がなかった
翌朝。宿屋のファミリールーム。
目が覚めて、最初に思ったのは「天井が広い」だった。
次に思ったのは、右腕が重い、だった。
視線を落とす。緑の髪が、俺の腕を完全に枕として占領していた。長い耳が、掛布からぴょこんと突き出している。
……昨夜の記憶が、順番に戻ってくる。
記念パーティー。あの『GAME OVER?』の表示。宿屋の受付での勝手な部屋変更。それから――部屋の扉が閉まったあとのことは、まあ、語るまい。
ひとつだけ言えるのは、路地裏の「緊急措置」とは、まるで違ったということだ。
あれは治療だった。時間制限のある、追い立てられた処置だった。
昨夜のは、そうではなかった。
急ぐ理由が、どこにもなかった。それだけのことで、こんなにも別物になるのかと、俺は本気で戸惑っていた。
……そして、もうひとつ。
昨夜も、メロンの「手順」は、途中からどこへ行ったのか分からなくなっていた。
ただし本人は、最後まで一度も「初めてだ」とは言わなかった。頑なに、先輩の顔をしたままだった。
だから俺も、最後まで気づかないふりを通した。
それが、たぶん、こいつに対する最低限の礼儀だ。
――ちなみに、あの金縁の表示は、あれきり出ていない。
『?』の意味も、あの効果音のことも、確かめる手立てはまだない。慌てて騒ぐ材料もない。
ただ、忘れはしない。俺の物語に「終了判定」を出しかけた何かが、この世界のどこかで動いている。石橋を叩く男として、そこは帳面につけておく。
腕の中で、緑の頭がもぞりと動いた。
「……ん」
薄く開いた瞼の向こうで、緑の瞳が、俺を見つけた。
三秒。
完全に、静止した。
「――ッ!」
布団が跳ねた。メロンは弾かれたように距離を取り、掛布を胸元まで引き上げて、壁際まで後退していた。
「な、ななな、なんで見てんだよ!」
「起きたら目の前にいたんだ。見るなという方が無理がある」
「し、失礼なやつだな! 寝顔は有料だぞ!」
「昨夜の時点で、財布はもう死んでる」
「じゃあツケだ!」
耳の先が、朝日の中で、これ以上ないくらい赤い。
昨夜あれだけ堂々と先輩ぶっていたのが、嘘のようだった。
俺は、それも指摘しないでおいた。
メロンはしばらく掛布に籠城していたが、やがて「こほん」と、わざとらしい咳払いをひとつ。
「……まあ、なんだ。ちゃんと、下がってるだろ。汚染値」
「ああ。おかげさまで」
「だろ? アタシの管理は完璧だからな。ひひっ」
声の震えが、まだ完全には取れていなかった。
俺は天井を見上げて、話題を変えることにした。
「……で。なんでファミリールームなんだ」
「彼女(仮)が通うのに、狭い部屋じゃ困るだろ」
「通う前提なのか。あと、その『(仮)』はなんだ」
「う、うっせ。あ、アタシにも段取りってもんがあんだよ」
「段取り?」
「……そのうち、狭いと困るかもしれねぇだろ」
「何が増える想定なんだ」
「さぁな。お前の財布の死亡回数じゃねぇか?」
「それはもう増えてる」
メロンは掛布から這い出すと、寝乱れた髪もそのままに、伸びをひとつ。
「……で? 衰弱事件の聞き込みは、どうなったんだ?」
「…………あっ」
忘れていた。
メロン以外への聞き込みは、まだ一件も進んでいない。進捗としては、限りなくゼロに近い。
「お前……まさか忘れてたのか? 彼女(仮)ができたくらいで浮かれやがって」
「浮かれてない! 主に財布事情で、浮かれる要素がない!」
言い返しながら、頭の隅では別のことを考えていた。
付き合ってくれ。俺は、たしかにそう言った。言ってしまった。
この世界の男女交際が、どのくらい重いものなのか、正直よく分かっていない。だが、日本にいた頃の感覚で言えば、軽々しく口にしていい言葉ではない。
まして、相手はメロンだ。飯をたかる。財布を殺す。サメ歯で笑う。それでも、数か月、俺の尊厳を黙って守ってくれていた相手だ。
……だからこそ、余計に、雑には扱えない。
「ま、そういうわけだから、働け。依頼を放置したら報酬は出ねぇ。報酬が出なきゃ飯も食えねぇ。飯が食えなきゃアタシが困る」
「最終的にお前の飯に着地するのか」
「当然だろ。それに、衰弱事件の聞き込みも残ってる。アタシが入口まで同伴してやる。彼女同伴なら、ちょっとはマシだろ?」
「彼女を盾にするな」
「ひひっ。ありがたく思えよな、公式サイフ」
「呼び名が、いつのまに確定してる!」
言い返しながら、俺は、しわの伸びた紹介状を懐へ入れ直した。
ゆうべまで、この一枚が、あんなに重かったのに。
……重さの中身が、少し変わった気がする。
軽くなった、とは、口が裂けても言わないが。




