【第5話②】言葉の選定を、完全に誤った
夕暮れの広場。茜色の石畳。店じまいを始める露店。
俺は噴水前のベンチに座り込んで、頭を抱えていた。
脳内に、いつもの薄い半透明のウィンドウが浮かぶ。
【選択肢】
▶いこい亭
休む
分かっている。正解は、上だ。依頼のためにも、男としての尊厳のためにも、俺の財布以外のすべてのためにも、正解は、上だ。
分かっているのに、視線はずるずると、下の文字へ吸い寄せられていく。
「……今日は、ここまでにしよう」
呟いた瞬間、ウィンドウが一拍だけ、止まった。
……今、明らかに「えっ」という間が、なかったか?
そっちじゃないでしょ、と言いたげな、小さな静止。
【システムメッセージ】
ああああは、宿屋へ戻ることにした。
「だからナレーションで俺を慰めるな。逆につらい」
ウィンドウは、何も答えずに閉じた。閉じ際、ため息をつかれた気がした。
◇
が、休めなかった。
ベッドに転がっても、目が冴えるばかりだった。天井のシミを数え、寝返りを打ち、枕の高さを三回調整して――気づけば、夜の街に出ていた。
足は、正直だった。頭は逃げたがっているのに、足のほうが、依頼と汚染値の現実を覚えていた。
夜の『いこい亭』は、夕方よりも一層、別世界じみていた。行灯の火。夜風に揺れるのれん。格子窓から漏れる橙色の灯りと、楽しそうな笑い声。
俺はその入口を、じっと見つめた。
見つめている。
……見つめているだけだった。
「結局、入らなかったのかよ。おめぇ、まじで重症だな」
「うわぁ!?」
噴水脇のベンチに、メロンがいた。頬杖をついて、面白がるような半目で、こっちを見ている。
「お、お前、なんでここに」
「アタシの巡回エリアだぞ。……で? 昼間、店の前まで来て回れ右して全力疾走したヘタレは、夜なら入れるようになったのか?」
「見てたのかよ!?」
「広場担当警備員だからな。不審者はチェック済みだ」
否定できない。店の前をうろついては逃げる男。完全に、不審者である。
メロンはベンチを、ぽんぽんと叩いた。俺は観念して、隣に腰を下ろした。
噴水の音。行灯の灯り。店から漏れる、遠い笑い声。
「……なあ、メロン」
「あん?」
「俺には、無理だ」
口から、本音がこぼれた。
「ああいう店は、要するに陽キャの行く場所だろ。知らない女の子と何を話せばいいのかも、注文の仕方も分からない。……情けないけどな」
メロンは、しばらく黙っていた。
茶化しが飛んでくると思った。ヘタレ、と。笑い飛ばして、尻を蹴飛ばして、店に放り込まれるのだと思っていた。
だが、返ってきたのは、それじゃなかった。
「……ま、いきなりは、誰だって無理だろ」
やけに、あっさりした声だった。
「そのうち慣れるさ。……じゃ、アタシは見回りに戻るかね」
メロンは、ぱんぱんとスカートの埃を払って、ベンチから腰を上げた。
そのうち。
……そのうちって、いつだ。
次にあの赤いマークが浮かぶのは、いつだ。明日か。十日後か。そのとき、こいつは隣にいるのか。――アタシだって、いつもお前のそばにいるわけじゃねぇ。そう言ったのは、こいつ自身だ。
のれんは、くぐれない。知らない誰かには、頼めない。医者には、かかれない。
残っている選択肢は――もう歩き出している、その背中、一つだけだった。
考えるより先に、立ち上がっていた。
言うべきことは、決まっている。汚染値の管理を、信頼できる相手に正式に依頼する。対価は、飯。継続的な契約の申し込み。それだけの、合理的な提案だ。
落ち着いて、条件から順に。そのつもりで、息を吸った。
だが、背中は歩みを止めない。距離が、開いていく。届かせなければ、と思った瞬間、声量の調整が、吹き飛んだ。
「これからも、お前に任せる! その代わり、飯は食わせてやる! 死ぬ気でギルドの依頼をこなして、特上ワイバーン串でも特上コースでも、できる範囲で奢ってやる!! だから――俺と、付き合ってくれ!!」
夜の広場に、俺の声が、盛大に響き渡った。
言い切ってから、自分の口から出た最後の一語に、自分で凍りついた。
付き合って、くれ。
……今、なんて言った、俺は。
「継続的に頼みたい」。たったそれだけの依頼を、焦った脳が、世界で一番誤解を招く四文字に圧縮した。
言葉の選定を、完全に、誤った。
メロンの足が、止まった。
振り返った顔は、ぽかんと口を開けて固まっていた。
数秒の沈黙。それから、ふっと鼻で笑う。
「……は? 寝ぼけてんのか、お前。スタミナ切れか? 飯ならいつも通りたかってやるから、変な気起こすな」
軽く、流された。夜の噴水だけが、呑気な音を立てている。
……流された。よかった。流された。
事故は、なかったことになった。




