【第4話①】路地裏の緊急治療
路地裏は、薄暗かった。
表通りの喧騒が、やけに遠い。石壁に反響する足音だけが、妙に大きく聞こえる。
突き当たりまで引きずり込まれて、ようやく腕が解放された。
「ここなら、まあ、見られやしねぇだろ」
メロンは壁に片手をついて、振り返った。
さっきまで串焼きをたかっていた顔じゃない。ふざけた気配は、きれいに拭い去られていた。
「言っとくがな。これは治療だ。医者にかかると思って、おとなしくしてろ」
「治療の説明が、何ひとつなされていないんだが」
「説明したら、お前、逃げるだろ」
図星だったので、黙った。
「顔、下げろ。……ちっとは、男らしいツラになったじゃねえか。行き倒れてた頃とは、大違いだ」
「行き倒れてない。座り込んでいただけだ」
「今それ蒸し返すか、普通」
言われるまま、少しだけ屈む。
それが失敗だった。
距離が、一気に、なくなった。
――近い。
いつも噴水前のベンチで、雑に隣に座っている距離とは、まるで違う。
焼きたてのパンと、香ばしいタレのにおい。その奥に、名前の分からない、甘い匂いが混じっている。
細い指が、俺の額に伸びた。前髪をかき上げられる。
「ひでぇもんだな。まっ赤っ赤だ」
「……見るな」
「見ねぇと治療できねぇだろ。安心しな。こういうのは、その、アレだ。手順ってもんがある。アタシは詳しいんだ」
「……詳しい、のか」
「詳しいっつってんだろ。何年生きてると思って――」
言いかけて、メロンは口をつぐんだ。
実年齢の話は、こいつにとって禁句だったはずだ。
自分で踏むのか、それを。
「……とにかく。手順どおりやりゃあ、すぐ済む。ほら、力抜けよ。噛みつきゃしねぇって」
尖った耳の先が、ゆっくり近づいてくる。
冗談みたいに整った緑の瞳が、まっすぐこっちを見て――いなかった。
微妙に、視線が俺の顎のあたりで泳いでいる。
「……おい。目、合ってないぞ」
「うるせぇな! い、いいんだよ、これで。教本にも……じゃなくて、常識的に、こういうもんなんだよ」
「今、教本って言いかけたな」
「言ってねぇ!」
薄暗がりでも分かるくらい、尖った耳の先が、赤い。
……もしかして、こいつ。
その先を考えるより早く、胸ぐらを掴まれた。
「ご、ごちゃごちゃうるせぇ患者だな! 治療開始だ、口閉じろ!」
――白状すると。
こういうのは、今日が、初めてだった。
日本にいた頃も、この世界に来てからも。手を繋いだ記憶すら怪しい人生だったのだ。
だから、何ひとつ、うまくできなかったと思う。
息の仕方も。
手の置き場も。
目線の逃がし方も。
全部わからないまま、心臓の音だけが、うるさいくらいに耳の内側で鳴っていた。
ただ――途中で、気づいてしまった。
俺の胸ぐらを掴んだままの、その指先が、小さく震えていたことに。
手順に詳しいはずの誰かさんの「手順」が、途中から明らかに行き当たりばったりになっていたことに。
「……お前、もしかして」
「し、しゃべんな。舌噛むぞ」
「今の間はなんだ」
「治療中は私語厳禁だっつってんだろ!」
声が、いつもの半分も強くなかった。
俺は、気づかないふりをすることに決めた。
ここで指摘したら、たぶん俺は、この路地裏から生きて帰れない。
石壁の冷たさと、体温と、遠い喧騒。
――以降、詳細は語るまい。
ひとつだけ言わせてほしい。
この世界の『汚染値』の下げ方は、心臓に悪い。
主に、俺の理性と、寿命に。
……そして、たぶん。
向こうにとっても。




