ルフト村
魔王城。
薄暗い玉座の間。
静かな空気の中、
紙をめくる音だけが響いていた。
「……アルディア王国にて、勇者選定が行われました」
報告しているのは、
秘書官リゼだった。
小柄な少女。
淡々と書類を読み上げている。
玉座では、
ヴァルドが頬杖をついていた。
興味が薄そうだった。
「勇者か」
「はい。すでに王都出発も確認されています」
「何代目だ」
「記録上では二十七代目です」
「そうか」
反応は薄い。
リゼは続ける。
「同行者は騎士クラリス、魔法使いミリアの二名です」
「放っておけ」
即答だった。
リゼが少し止まる。
「……よろしいのですか?」
「どうせ途中で死ぬ」
静かな声だった。
その横で、
セレスが資料へ目を通している。
「現時点で脅威性は低いかと」
冷静な分析だった。
ヴァルドは頷く。
「なら終わりだ」
「……承知しました」
リゼは一礼する。
それで報告は終わった。
だが。
セレスだけは、
閉じられた資料を少し見ていた。
《勇者 レイン》
妙に情報が少ない。
そこだけ、
少し引っかかった。
「……?」
ヴァルドはもう別の報告を聞いていた。
セレスも何も言わなかった。
グランゼル・ハンターギルド。
昼間なのに酒臭かった。
ハンターたちの笑い声が響き、
依頼掲示板には大量の紙が貼られている。
クラリスは腕を組んだ。
ミリアは報酬欄ばかり見ている。
クラリスは掲示板から一枚剥がした。
「これはどうでしょう」
《南街道護衛任務》
・報酬:金貨三枚
・危険度:低
「いい報酬ですね」
「無難でーす」
ミリアが頷く。
クラリスは真面目な顔で続ける。
「まずは旅に慣れるべきです。いきなり危険地域へ行く必要はありません」
正論だった。
だが。
返事がない。
「……レイン様?」
レインは別の依頼書を見ていた。
《ルフト村周辺魔物討伐》
・報酬:金貨一枚
・期間:二日程度
・討伐対象:夜狼三体
その下。
小さく追記されていた。
《村宿泊施設“風見の湯”利用自由》
《温泉利用可》
沈黙。
クラリスが嫌な顔をする。
「……何を見てるんですか」
「温泉があります」
真顔だった。
「依頼内容見てください!!」
「見ました」
「絶対温泉しか見てませんよね!?」
ミリアも横から覗き込む。
「あ、温泉でーす」
「増えるな!」
クラリスは依頼書を見て眉を寄せる。
「……金貨一枚?」
「安いですねー」
ミリアも頷いた。
普通なら受けない依頼だった。
だがレインは静かに言う。
「宿付きです」
「そこなんですよ問題は」
「温泉もあります」
「聞いてください!」
レインは真顔だった。
「金貨一枚でも、宿泊費と食事代を考えれば悪くありません」
「計算してる!?」
ミリアが少し感心した顔をする。
「……あ、確かにそうかもですねー」
「乗るな!」
レインは依頼書を剥がした。
「これにしましょう」
決断だけは早かった。
出発準備を終え、
三人が牙狼亭を出ようとした時だった。
「……待ちな」
店主が奥から出てくる。
昨日より少し静かだった。
たぶんレインのせい。
店主は紙袋を三つ渡した。
「昨日は悪かったな」
クラリスが瞬きをする。
「え?」
「騒がしかったろ」
「それはまぁ……はい」
店主はレインをちらりと見る。
一瞬だけ目を逸らした。
たぶん昨夜、
下で何か見た。
「詫びだ。持ってけ」
ミリアが袋を覗く。
「サンドイッチでーす」
厚かった。
肉と野菜が大量に挟まっている。
「道中で食え」
レインは少し袋を見る。
「……ありがとうございます」
店主は数秒黙り、
引きつった笑みを浮かべた。
「まぁ……その……」
「?」
「次からはもう少し穏便に頼むわ」
沈黙。
クラリスがゆっくり振り返る。
「やっぱり何かしたんですか?」
「話しました」
「絶対違いますよね!?」
店主はそれ以上何も言わなかった。
グランゼルを出ると、
街道は徐々に静かになっていった。
風が気持ち良い。
遠くには山が見える。
さっきまでの喧騒が嘘みたいだった。
ミリアは歩きながらサンドイッチを食べていた。
「これおいしーです」
「肉が厚いですね」
レインも珍しく高評価だった。
クラリスが少し笑う。
「結構気に入ってますね」
「悪くないです」
その時だった。
ガサッ。
森の奥で音が鳴る。
クラリスの表情が変わる。
「……止まってください」
空気が張る。
ミリアも食べる手を止めた。
低い唸り声。
次の瞬間。
森から狼型の魔物が飛び出してくる。
夜狼。
灰色の毛並み。
赤い目。
二体。
クラリスが剣を抜いた。
「レイン様、下がっ――」
ドォン!!
風が揺れた。
一瞬だった。
気づけば。
夜狼は地面へ沈んでいた。
片方は木へめり込み、
もう片方は地面に埋まっている。
沈黙。
風だけが吹いていた。
ミリアが止まる。
「……終わりましたー?」
「はい」
レインは普通にサンドイッチの続きを食べ始めた。
クラリスが固まる。
「……今何したんですか」
「蹴りました」
「蹴った!?」
真顔だった。
レインはサンドイッチを見ながら言う。
「冷める前に食べたほうがいいです」
「今それどころじゃないですよ!?」
ミリアは少し考える。
「でも確かに冷めるとおいしくないですねー」
「お前も落ち着きすぎです!!」
そのまま三人は再び歩き出した。
道は山側へ続いている。
空気が少し涼しくなってきた頃。
小さな村が見えてきた。
ルフト村だった。
山に囲まれた静かな村。
風の音だけが聞こえる。
グランゼルとは別世界みたいだった。
レインが静かに周囲を見る。
「……静かですね」
「田舎ですから」
クラリスが答える。
すると、
村長らしき老人が慌てて走ってきた。
「おお……! 依頼を受けてくださった方々ですな!」
「王都より参りました。クラリスです」
「ありがとうございます、本当に……!」
かなり困っているらしかった。
村長は何度も頭を下げる。
「夜狼が夜になると村へ下りてくるのです。家畜も何頭かやられまして……」
「討伐は今夜ですか?」
クラリスが聞く。
村長は頷いた。
「日が落ちる頃に現れます」
そして少し申し訳なさそうに言う。
「それまではどうか宿でお休みください。 “風見の湯”という小さな宿ですが……」
その瞬間。
レインが顔を上げた。
「え?」
「温泉付きですよね」
「あ、はい」
「……そうですか」
少しだけ声が柔らかかった。
クラリスが止まる。
「なんか機嫌良くないですか?」
「普通です」
“風見の湯”は、
古いけれど綺麗な宿だった。
木の匂い。
静かな廊下。
窓の外では風が鳴っている。
レインが立ち止まる。
「……静かですね」
「はい?」
「そんな評価あるんですか?」
ミリアは窓を開ける。
「景色いいですねー」
「山しかないですよ?」
「だからじゃないですかー?」
昨日の宿とは違った。
怒鳴り声もない。
酒臭くもない。
静かだった。
レインは少しだけ目を閉じる。
「……いい宿です」
クラリスが止まる。
「まだ早くないですか、その感想言うの」
「重要です」
真顔だった。
荷物を置き、
三人は温泉へ向かっていた。
廊下も静かだった。
床も軋まない。
レインは周囲を見回している。
「……廊下の音が少ないですね」
「そこ見てたんですか?」
クラリスが呆れる。
「重要です」
真顔だった。
温泉は宿の裏にあった。
岩造り。
湯気がゆっくり立ち上っている。
入口は左右に分かれていた。
《男湯》
《女湯》
ミリアが暖簾を見る。
「ちゃんと分かれてますねー」
「当たり前です」
クラリスが即答した。
レインは少しだけ頷く。
「安心しました」
「何を警戒してたんですか」
そのまま三人は別れる。
男湯。
静かだった。
湯の音しかしない。
レインは湯へ浸かり、
ゆっくり息を吐く。
「……いいですね」
昨日の牙狼亭とは別世界だった。
怒鳴り声もない。
床も揺れない。
静かだった。
レインは目を閉じる。
「……生き返ります」
一方その頃。
女湯。
「はぁー……」
クラリスが肩まで湯へ浸かる。
ミリアは端でだらけていた。
「昨日うるさすぎましたからねー」
「本当にあの宿なんだったんですか……」
少し沈黙。
クラリスがぽつりと言う。
「でも」
「?」
「今日の宿は良いですね」
ミリアが少し笑う。
「レインさん好きそうですもんねー」
「もう完全に宿基準で見てますよねあの人」
その時だった。
コンコン。
外から慌てた声が響く。
「勇者様ー!!」
村人だった。
「夜狼が出ました!!」
クラリスがすぐ立ち上がる。
「来ましたね」
ミリアも湯から上がる。
「早かったですねー」
一方その頃。
男湯。
レインだけ少し残念そうだった。
「……今からですか」
「今からですよ!?」
壁越しにクラリスの声が響いた。
夜の森は暗かった。
風が木々を揺らしている。
村人に案内され、
三人は山道を進んでいた。
「この先です……!」
村人の声が震えている。
「さっき家畜小屋が襲われて……!」
クラリスが剣へ手をかけた。
「気をつけてください」
赤い目が闇に浮かぶ。
低い唸り声。
夜狼だった。
三体。
ミリアが杖を構える。
「いましたねー」
クラリスが前へ出る。
「レイン様、後ろ――」
「早く終わらせましょう」
静かな声だった。
次の瞬間。
ドォン!!
空気が揺れた。
一瞬だった。
風が吹き抜ける。
木々が揺れる。
沈黙。
気づけば。
夜狼は全部倒れていた。
一体は木へめり込み、
残り二体は地面へ沈んでいる。
村人が固まる。
「……え?」
クラリスも止まっていた。
「……終わり?」
「終わりです」
レインは服についた土を払う。
ミリアが首を傾げた。
「今何したんですかー?」
「蹴りました」
「蹴った!?」
クラリスが叫ぶ。
レインは空を見上げた。
「……冷えますね」
「話変えないでください!!」
だがレインはそのまま村の方向を見る。
宿の灯りが小さく見えた。
「戻りましょう」
「温泉ですよねそれ」
「湯が冷めます」
「そんな鍋みたいに言わないでください!」
村人だけがまだ固まっていた。
宿へ戻る頃には、
村は少し騒ぎになっていた。
「もう終わったのか……?」
「勇者様すご……」
「早すぎないか?」
ざわざわと声が広がっていく。
だがレインは特に気にしていなかった。
宿へ入る。
静かだった。
レインが少しだけ息を吐く。
「……落ち着きますね」
クラリスが止まる。
「本当に宿好きなんですね」
「好きというより」
レインは少し考えた。
「ちゃんと休める場所は大事です」
珍しくまともだった。
一階食堂。
昼より人が増えていた。
村人たちが嬉しそうに話している。
「助かったなぁ……」
「これで安心して眠れる……」
空気が明るかった。
そこへ宿の女将が料理を運んでくる。
大皿だった。
山菜料理。
焼き魚。
肉の煮込み。
炊き込み飯。
湯気が立っている。
ミリアが目を丸くした。
クラリスも驚く。
「すごい量ですね」
女将は少し恥ずかしそうに笑った。
「本当はもっとちゃんとした料理を出したかったんですけどねぇ」
「え?」
「夜狼が出るようになってから、山へ入れなくなっちゃって」
女将は申し訳なさそうに言う。
「だから最近は、こんなのしか用意できなくて……」
クラリスが止まる。
これで“こんの”。
レインは煮込みを一口食べた。
数秒。
「……かなり良いですね」
「始まりましたね」
クラリスが言う。
レインは気にしない。
「味が丁寧です」
「丁寧?」
「雑じゃないです」
真顔だった。
ミリアは炊き込み飯を食べながら頷く。
「なんか安心する味ですねー」
女将が少し嬉しそうに笑う。
「そう言ってもらえると助かります」
窓の外では風が鳴っている。
怒鳴り声もない。
酒臭くもない。
静かだった。
レインは周囲を見回した。
「……やっぱり良い宿ですね」
クラリスがため息を吐く。
「もう完全に宿メインなんですよねこの人……」
その時。
奥の席にいた村人が頭を下げた。
「本当にありがとうございました、勇者様」
他の村人たちも続く。
「助かりました」
「これで畑へ行ける……」
「子供も安心して眠れます」
静かな感謝だった。
レインは少しだけ止まる。
それから、
味噌汁を置いて言った。
「……静かなほうが休めますから」
クラリスが顔を押さえる。
「間違ってないんですけどなんか違うんですよねぇ……」
食事を終える頃には、
食堂の空気もかなり落ち着いていた。
村人たちは次々と席を立ち、
宿の中はまた静かになっていく。
風の音だけが残った。
レインは湯呑みを持ちながら、
少し周囲を見回す。
「……静かですね」
「気に入りすぎじゃないですか?」
クラリスが呆れる。
「重要です」
真顔だった。
ミリアは机へ突っ伏している。
「眠くなってきましたぁ……」
「今日はもう休みましょうか」
クラリスも少し疲れていた。
討伐自体は一瞬だった。
だが、
精神的にはかなり振り回されている。
特に勇者に。
その時だった。
女将が小さな皿を持ってくる。
「はい、お疲れ様でした」
焼き菓子だった。
木の実が入っている。
「サービスですかー?」
「ちょっとしたお礼ですよ」
女将は笑う。
「村を助けてくれましたからねぇ」
ミリアが一口食べる。
「……あ、おいしー」
「甘さ控えめですね」
レインは数秒無言だった。
そして静かに言う。
「……バターが良いです」
「そこまで分かるんですか?」
「かなり」
真面目だった。
女将は少し嬉しそうに笑った。
「昔はもっと色々作れたんですよ。山の木の実とか、蜂蜜とかも採れましたし」
「今は無理なんですか?」
クラリスが聞く。
女将は小さく頷く。
「夜狼が出るようになってから、皆あまり山へ入らなくなってねぇ でも勇者様のおかげで明日からは入れます。」
「ありがとうございます。」
「お役に立ててよかったです。」
クラリスがまじめに対応した。
その間。レインは何か考えてるよで静かだった。
村のことを助けられて良かったと考えているようにも感じた。
だが次の瞬間。
「この宿、朝食も期待できます」
「やっぱり宿なんですよね!?」
ミリアが笑う。
「レインさんちょっと楽しみにしてますねぇ」
「楽しみではありません」
少し間があった。
絶対楽しみだった。
深夜。
部屋。
静かだった。
本当に静かだった。
昨日みたいな怒鳴り声もない。
壁も揺れない。
レインはベッドへ座ったまま、
少し目を閉じる。
風の音だけが聞こえる。
「……いい宿です」
ぽつりと呟いた。
そして机へ向かう。
羽ペンを取り、
羊皮紙へ文字を書き込む。
《風見の湯》
・食事 ★★★★☆
味付けが丁寧。
・接客 ★★★★☆
対応が静か。
・温泉 ★★★★★
湯温が良い。
・防音 ★★★★★
非常に静か。
・立地 ★★★☆☆
山道がやや遠い。
少し考える。
そして最後に書き足した。
《総評》
「かなり良い宿。また来たい」
その瞬間。
後ろから声がした。
「また書いてたんですか」
クラリスだった。
レインは振り返らない。
「記録は大事です」
「旅日記みたいになってません?」
「違います」
「違わないと思うんですけどねぇ……」
クラリスは苦笑しながら窓を見る。
静かな夜だった。
するとレインがぽつりと言う。
「……帰りにも泊まりましょう」
クラリスは頭を抱えた。
「魔王討伐の旅なんですよこれ……」




