第26話 塔。(休題)
カタカタッ、と机が揺れた気がしたが、すぐに収まった。地震だろうか?
そんなことをほんの少し思ったが、アードルフはそのまま仕事を続けた。もう、真夜中と言ってもいい時間だった。
まさかそれが、あんな大きな災害の予兆であるとは、その時は思いもしなかった。
北部で起きた大地震は山を崩壊させ、およそ5キロにわたって崩れた。
耕作地を大きく取るために、民家は山麓沿いに建っており、3つの村が呑み込まれ、貯水池も崩壊し、流れ出した。
知らせが早馬で飛び込んできたのは、その二日後だった。
この国の女王陛下、妻であるエレオノーレは軍を率いて災害現場に向かった。
留守を任されたアードルフは支援のための食糧や医療品をかき集めて、第2弾、第3弾の部隊を送り込んだ。辺境伯家に救助要請も出したので、領軍も出発してくれているはずだ。
報告書は届くが、芳しい状況ではない。
土砂がかなりの厚さになだれ込んでいるので、人命救助は捗っていないようだ。
「…ふう…」
執務室で眼鏡を外して、頭を抱え込む。ここ何日もろくに寝ていない。
サラサラと彼の美しい銀髪が指に掛かる。
トントンッ、とドアを叩く音がする。宰相殿だろうか?備蓄用の小麦を私の名前で放出するようにと指示を出しておいたから。
入ってきたのは、お義母様の離宮の侍女服を着た侍女だった。
「アードルフ様を王太后陛下が大変心配なさっておりまして、せめてよくお眠りになれるように、と申されまして…ワインをお預かりしてまいりました」
…こんな時間に?と思わなかったわけではないが、王城の前は篝火がたかれ、次に出発する部隊が、荷物を積み込んでいる。
「ああ。ありがとう。陛下によろしく伝えてください」
侍女は一礼すると、帰っていった。短い金髪の女性。顔はよく思い出せない。
机の上の書類を片づけて、ソファーに少し横になろうとして…義母上の寄こしてくれたワインが目に留まる。ほんの少し、寝酒にするか。そう思って、アードルフはグラスの半分ほど注いで飲んだ。甘い、濃厚なデザートワイン。
次の日目覚めると、妙に調子がいい気がした。短い時間だったが、ぐっすり眠れた気がした。
そんな日が続き…ワインはなくなりそうな頃に、同じ侍女が届けてくれるので、少しずつ毎晩飲んでいた。
…いつの間にかアードルフは、会議中でも寝酒のワインのことを考えるようになる。
もうその頃は、部屋に下がって風呂に入る時間も惜しい気がして、ワインを飲んだ。飲むと落ち着く。
(疲れているのかな…)
いよいよ自分がおかしいと思ったのは…そのワインが切れた時だった。
いつもなら、飲み終わる少し前に新しいワインを持って訪ねてくる侍女が来なかった。
アードルフは…義母上に直接貰いに行こうかと何十回も考え…うろうろし、届けるのを忘れているのだろういつもの侍女にいら立って…まんじりともせずに夜を明かした。
翌朝の会議で、義母上にお会いした。
「あら、アードルフ、寝てないの?すごい顔よ?」
おばさまに当たる義母上が、心配そうに声をかけてくれた。
「ええ…あ、義母上、いつも差し入れのワインをありがとうございます」
そうアードルフが礼を述べると、義母上である王太后陛下は、キョトンとした顔をした。
「あら?私は何も贈っていないわよ?」
「え?だって…ワインを…」
そう言いかけて、アードルフは事の重大さに気が付いた。まだ理性の残っている時でよかった。
「…義母上…」
情けなさから、涙が止まらない。
「も…申し訳ございません。私は塔にこもります。誰も入れないでください。こんな時ですが…後のことをお願いしてもよろしいでしょうか?仕事の進捗は宰相殿に。」
「アードルフ?」
「エレオノーレが…女王陛下が戻り次第離縁いたします。今、巷で騒がれているよく眠れるという評判のワインは…中毒性の薬物が混入されています。抜けられなくなって…被害が拡大する前に規制してください」
「…アードルフ?」
震え出した右手を、左手で抑える。
自分が情けなくて、こぼれる涙も拭く気がない。
「私のところにそれを運んできたのは…離宮の侍女の制服を着た…金髪の、髪の短い女です。」
*****
誰も入れないように、と、アードルフは塔に閉じこもった。
クラーラ王太后陛下は、塔に警備の者を増やし、彼の侍従と王城の専属医を待機させた。囚人用のドアの下の隙間から、水や食料を差し入れているが、手つかずらしい。
「王配陛下はご病気で」
と、政務が取れなくなったことを関係機関に伝えるよう、マテーウス卿に命じた。
クラーラは引退してから引っ込んでいた離宮から王城の政務室に戻り、孫のエリーアスに手伝わせながら、北部の災害支援と並行して、いわゆる”幸せワイン”の摘発を行った。回収したワインからはアヘンが検出され、規制を厳しくしたが…名を変え品を変えて…いたちごっこが続いた。
北部の災害の段取りをつけた娘、エレオノーレが帰還したのは、それから一月ほど後。その間、アードルフのことは何一つ伝えていなかった。
「ただいま帰りました。あら?お母様?アードルフは?」
「……」
政務室に真っすぐ、まずはアードルフの顔を見に来たのであろう娘は……小さいころから従兄のアードルフが大好きだった。普通の娘なら、それで済んだことだが…この子には女王になる。アードルフの覚悟も必要だった。あの時、好き合っている二人を反対しなかった。
…こうなってしまうと…この子には…いっそ愛などない、政略結婚をさせればよかった。
クラーラの予感は当たる。
アードルフの状態を知ったエレオノーレは淡々と北部の災害の手を打つと、私に深々と頭を下げて…自らも、塔にこもった。
もう、2年以上になる。
アードルフの薬の影響はもう抜けているはずだと、主治医の報告があったのは随分前だ。ただ…精神的に…脆くなってしまったらしい。「今は、エレオノーレ様と離婚することだけを考えていらっしゃるようで」と。
クラーラはラルフにも相談した。お前が王になるか、と。
ラルフは先王が、我が夫が老いらくの恋をして…メイドに産ませた子だ。
エレオノーレの義弟。
大公家に養子に出したが、さっさと騎士になって家を出た。随分前から継承権を放棄すると言ってきているが、保留にしている。
ラルフは笑って…このまま女王陛下はご病気だということにして、エリーアスが18歳になるのを待ちましょう、と言った。
***
クラーラは孫のエリーアスが見つけてきた、辺境伯家のモニカを眺める。
父親によく似た黒髪を持つ少女は、会議に集まっているメンバーに躊躇することなく自分の意見を話している。
マテーウス卿もお気に入りのこの子は、自分で自分ぐらい守れそうだ。
でも…この地位に…愛は必要なのかな?
エリーアスをからかいながら…クラーラはそんなことを考えた。




