正法眼蔵随聞記 第五巻
正法眼蔵随聞記 第五巻
侍者 懐奘 編
第九十三章
道元は、ある日、僧達に示して、次のように、話した。
仏法のためなら、身の命を惜しむなかれ。
俗世の人ですらなお、道理のためなら、身の命を捨て、親族を顧みず、忠誠を尽くして、節操を守る。
このような人を「忠臣」とも言うし、「賢者」とも言うのである。
昔、漢の高祖が隣国と戦争する時、ある臣下の母が敵国にいた。
軍も「裏切る心が有るのではないか?」と疑った。
高祖も「彼は、もしかしたら、母を思って、敵国へ行ってしまう事も有るかもしれない。もし、そうされたら、軍は破れてしまうであろう」と危険視した。
ここで、彼の母も「我が子は、もしかしたら、私のせいで、我が国へ来てしまう事も、あるかもしれないのでは?」と思い、戒めて、
「私のせいで、戦時の忠誠を緩めるなかれ。
私が、もし、生きていたら、あなたには裏切る心が起きるかもしれない」
と話して、剣に身を投げて、死んでしまった。
その子は、本より、裏切る心が無かったが、その戦争で忠節を致す志が深かった、と言われている。
まして、僧が仏道を学ぶ時も、必ず、背く心が無い際に、実に、仏道に適うのである。
仏道では、慈悲や智慧が、本より、備わっている人達もいる。
たとえ、慈悲や智慧が無い人でも、学べば、得るのである。
ただ、心身を共に捨てて、仏法という大海へ心を向けて、仏法の教えに任せて、私的な歪曲をするなかれ。
第九十四章
(道元は、次のように、話した。)
また、漢の高祖の時代、ある賢臣は、
「政治の道理の乱れを直すのは、結ばれた縄をほどくような物なのである。
急ぐべきではない。
よくよく、結び目を見て、ほどくべきである」
と話した。
仏道も、そのようなのである。
よくよく、道理を心得て、修行するべきなのである。
仏法を良く心得る人とは、必ず、強く悟りを求める心が有る人なのである。
どんなに智慧が利発で聡明な人でも、悟りを求める心が無くて、自我への執着を離れる事ができ得ず、名声や利益をも捨てる事ができ得ない人は、悟りを求める心が有る者にも成らず、正しい道理も心得ないのである。
第九十五章
道元は、僧達に示して、次のように、話した。
仏道を学び修行する人は、自身のために仏法を学ぶなかれ。
ただ、仏法のために仏法を学ぶべきなのである。
その先例とは、自身の心身を一つも残さず捨てて、仏法という大海に心を向けるのである。
その後、一切の善悪に関わる事無く、自分の心を存在させる事無く、行い難い忍耐し難い事でも、仏法のために、仕えて、強いて、それを行うべきなのである。
自分の心で、強いて行いたい事でも、仏法の道理ではない事は捨てるべきなのである。
決して、「仏道修行の功徳によって、代わりに善い結果を得よう」と思うなかれ。
ただ、一度、仏道に心を向けた以上は、再び自己を顧みず、仏法の掟に任せて修行していって、私的な歪曲をするなかれ。
先例の証拠は皆、このようなのである。
心で願い求めるものが無ければ、大いに安楽に成るのである。
世間の人でも、他人と交流せず、自分の家だけで成長した人は、心のままに振る舞ってしまい、自分の心を優先してしまい、人目を気にせず、他人の心を兼ね合わせて考える事ができない人は、必ず、悪く成ってしまうのである。
仏道を学び修行する用心も、このようなのである。
僧達と交流し、師に従って、自我に執着した狭い物の見方を立てず、心を改めていけば、簡単に、悟りを求める心が有る者と成るのである。
仏道を学び修行するには、まず、清貧を学ぶべきなのである。
名声を捨て、利益を捨て、一切へつらう事無く、万事を投げ捨てれば、必ず、善い、悟りを求める心が有る人と成るのである。
宋の時代の中国で「善い僧である」と他人にも知られている人達は皆、貧しい人なのである。
衣服も破損していて、諸々の伝手も乏しいのである。
昔、天童山の書記であった道如 上座と言う人は、宰相の息子である。
けれども、親族からも遠く離れて、世俗の利益を貪らなかったので、衣服がやつれ破壊して目もあてられないほどであったが、「道徳」、「善行」が他人に知られて、名巒大寺の書記にも成ったのである。
私、道元は、ある時、道如 上座に、次のように、質問した。
「和尚様、道如 上座は、役人の子息で、富裕で高貴な一族の者です。
どうして、身につけている物が皆、下等な品質の物で、貧しいのですか?」
道如 上座は、「僧に成ったからである」と答えた。
第九十六章
道元は、ある日、僧達に示して、次のように、話した。
俗世の人は、「宝は、よく、身を害する敵なのである。昔も、そういう事が有った。今も、そういう事が有る」と話している。
この言葉の意味とは、次のような話である。
昔、一人の俗世の人がいた。
その人は、一人の美女を妻としていた。
権勢が有る人が、ある時、この美女を欲した。
その美女の夫は、その美女を惜しんだ。
権勢が有る人は、終に、兵を出して、その美女の家を包囲した。
美女が奪い取られようとする時、その美女の夫は、「私は、あなたのせいで、命を失ってしまう」と話した。
その美女は、「それなら、私も、夫のために、命を失いましょう」と話して、高い建物から落ちて死んでしまった。
その後、その美女の夫は、討漏らされて(生き延びて)、後に、物語にしたのである。
(前述の言葉は、その美女の夫の言葉なのである。)
第九十七章
道元は、また、次のように、話した。
昔、一人の賢人が、州吏として国政を行っていた。
その時、息子がいた。
息子は、役所の仕事で、父の所を辞して、父を礼拝してから去った。
その時、父は、一つの絹を与えた。
息子は、次のように、話した。
「あなた、父は、気高く誠実です。
この絹は、どこから、得たのでしょうか?」
父は、「余った給料からである」と話した。
息子は、去ると、皇帝に絹を献上して、その絹の由来を報告した。
皇帝は、とても、賢人が賢明である事に感心した。
息子は、次のように、話した。
「父は、名声を隠しています。
私は、父の名声を明らかに表しました。
実に、父の賢明さは優れているのです」
この話の意味は、「一つの絹を、わずかであっても、賢人は、利用しない(。私腹を肥やさない)」という事なのである、と聞こえる。
また、真実の賢人は、名声を隠す。
「(余った)給料からである(。自身の賢明さからではない)」と、(絹の支払いに)使用できた理由を言うのである。
俗世の人ですらなお、このようなのである。
まして、仏道を学び修行する僧は、自身への執着が有るなかれ。
また、真実の真理を好むのであれば、「悟りを求める心が有る者」という名声を隠すべきなのである。
第九十八章
道元は、また、次のように、話した。
ある仙人がいた。
有る人が、「どのようにして、仙人に成る事ができ得たのですか?」と質問した。
その仙人は、「『仙人に成ろう』と思うのであれば、仙人への道を好むべきである」と話した。
そのため、未だ学ぶべき物が有る人である僧も、「仏や祖師への道によって仏や祖師に成ろう」と思うのであれば、仏や祖師への道を好むべきである。
第九十九章
道元は、僧達に示して、次のように、話した。
昔、ある国王がいた。
その国王は、国を統治した後に、諸々の臣下に「私は良く国を統治している。私は賢王であろうか?」と質問した。
諸々の臣下は皆、「王は、とても良く統治しています。偉大な賢王です」と話した。
その時、ある臣下がいて、「王は、賢王ではない」と話した。
国王は、「どのような理由からか?」と話した。
その臣下は、「国を統治後、弟に与えず、息子に与えてしまった」と話した。
(その臣下の言葉は)国王の心に適わなかったので、追い立て(て、その臣下を追放し)た後、また別の、ある臣下に「私は、思いやり深い知者であろうか?」と質問した。
その別の臣下は、「大いに思いやり深い知者です」と話した。
国王は、「どのような理由からか?」と話した。
その別の臣下は、次のように、話した。
「思いやり深い賢王には、必ず、忠臣がいます。
忠臣は正直に話します。
前の(追放された)臣下は大いに正直に話しました。
(その追放された臣下は)忠臣です。
思いやり深い賢王でなければ、獲得できていなかったでしょう」
国王は、この言葉に感じる所が有って、すぐに、前の(追放した)臣下を呼び寄せて戻したのである。
第百章
道元は、また、次のように、話した。
秦の始皇帝の時、(始皇帝は、)「皇太子の花園を広げよう」と話した。
臣下は、次のように、話した。
「最も良い考えですね。
花園を広くして、鳥や獣が多く集まれば、鳥や獣によって隣国の軍を防ぐ事ができますね」
この言葉によって、その件は止まった。
また、(始皇帝は、)「宮殿を造り、柱に漆を塗ろう」と話した。
臣下は、次のように、話した。
「最もですね。
柱を塗れば、(柱を鑑賞して、)敵は立ち止まってくれるでしょう」
この言葉によって、その件も止まった。
儒教の心づかいでは、このように、巧みな言葉によって、悪事を制止し、善行を勧めるのである。
僧が、他人を教化する心づかいの巧みさも、そのような心づかいが有るべきなのである。
第百一章
ある僧が、ある日、次のように、質問した。
知者であるが、悟りを求める心が無い人と、
無知であるが、悟りを求める心が有る人の、
最初から最後までの様子は、どのようなのでしょうか?
道元は、次のように、答えた。
無知であるが、悟りを求める心が有る人は、終には、後退してしまう事が多い。
智慧が有る人は、悟りを求める心が無くても、終には、悟りを求める心を起こすのである。
現在でも、現の証拠が多い。
そのため、まず、悟りを求める心の有無を問わず、仏道を学び修行する事につとめるべきなのである。
仏道を学ぶのであれば、ただ、清貧であるべきである。
仏教内外の書籍を見ると、貧しくて居所も無く、あるいは、滄浪の水に浮かび(漁をしたり)、あるいは、首陽の山に隠れ、あるいは、樹の下や露地で端正に坐禅し、あるいは、墓場や深い山に庵を造って住む人もいる。
また、富んでいるし高貴で、財産が多く、朱色の漆を塗って黄金や宝玉を磨いて宮殿などを造る人もいる。
両方、共に、経典や書籍に載っている。
けれども、後世の人達が勧めるのは、皆、清貧で財産が無いのを根本としている。
非難して罪業を戒める時には、富んで財産が多い者を「傲慢な者」と言って非難するのである。
第百二章
道元は、僧達に示して、次のように、話した。
出家者は、必ず、他人から布施を受けたら、喜ぶなかれ。
また、受け取らない事なかれ。
故人である僧正は、次のように、話した。
他人からの捧げものを得て、喜ぶのは、仏による制度に違反してしまう。
喜ばないのは、布施をした人の心に違反してしまう。
この先例、用心は、「私に捧げている訳ではなく、仏や仏法や僧に捧げているのである」という事なのである。
このため、布施への返事では、「この捧げものは、仏や仏法や僧が、必ず、受け取るでしょう」と話すべきなのである。
第百三章
道元は、僧達に示して、次のように、話した。
古代の先人は、「王者の力は牛よりも優れている。けれども、牛と競争しない」と話している。
今の、未だ学ぶべき物が有る人である僧も、「自分の智慧や才能や知識は他人よりも優れている」と思っていても、他人と論争するのを好むなかれ。
また、悪口によって他人を叱ったり、怒った目で他人を見るなかれ。
今の人々は、多くが、財産を与えて恩を施しても、怒りを現し、悪口によって叱るので、必ず、反逆の心を(他人の心に)引き起こしてしまうのである。
昔、真浄文 和尚は、僧達に示して、次のように、話した。
私、真浄文 和尚は、昔、雲峰と縁を結んで、仏道を学び修行していた時、雲峰が同期の僧と仏法について論じてしまい、衆寮で互いに大きな声で論じてしまい、終には、互いに悪口にまで及んでしまって喧嘩してしまった。
論争をやめると、雲峰は、私、真浄文 和尚に、次のように、話した。
私、雲峰と、あなた、真浄文 和尚は、心を同じくする同期なのである。
縁も深い。
なぜ、私、雲峰が他人と論争している時に、口を挟んで味方してくれなかったのか?
私、真浄文 和尚は、その時、会釈して、恐縮しただけであったのである。
その後、彼、雲峰も一人の善知識を持つ人に成り、私、真浄文 和尚も今、住持に成っている。
昔の事を考えると、雲峰の議論は、結局、何の役にも立たないのである。
まして、論争は、必ず、正しくない事なのである。
「論争して、何の役に立つのか? いいえ!」と思ったので、私、真浄文 和尚は、無言で止めたのである。
今の、未だ学ぶべき物が有る人である僧も、最も、このように思うべきである。
仏道を学び修行する勤労の志が有れば、時間を惜しんで仏道を学び修行するべきなのである。
どうして、暇が有って、他人と論争するべきである、というのか? いいえ!
(論争は、)結局、自身と他者にとって、共に、無益なのである。
仏法ですら、そうなのである。
まして、世間の事でも、無益の論争をするなかれ!
王者の力は牛よりも優れているが、牛と競争しない。
「私は、法を知っていて、ある人よりも優れている」と思っても、議論して、他人の時間を盗んで非難するなかれ。
もし、真実の、仏道を学び修行する人がいて、仏法について質問して来たら、仏法を惜しむなかれ。
その人のために、開示するべきである。
けれども、三度、質問されたら、一度だけ答えるべきである。
口数が多かったり、無駄話をしたりするなかれ。
私、道元も、この真浄文 和尚の話を見た後は、「このような罪は自身にも有る。この話は私、道元をも諌めているのである」と思ったので、以後、終に、他人と仏法について論争しなかったのである。
第百四章
道元は、僧達に示して、次のように、話した。
古代の先人は、多くが、「時間を空しく過ごすなかれ」と話している。
また、「時間をいたずらに無駄に過ごすなかれ」と話している。
今、仏道を学び修行する人は、時間を惜しむべきである。
露のような命は消えやすいし、時間は速やかに移り変わるので、短時間、存命中の間に、他の事に関わるなかれ。
ただ、仏道を学ぶべきである。
今の人々は、
あるいは、「父母の恩は捨て難い」と話すし、
あるいは、「君主の命令には背き難い」と話すし、
あるいは、「妻子や眷属から離れ難い」と話すし、
あるいは、「眷属などの命を活かせるか、分かり難い」と話すし、
あるいは、「世俗の人々は非難するであろう」と話すし、
あるいは、「貧しくて道具を整え難い」と話すし、
あるいは、「器ではないので、仏道を学び修行するのに耐えられない」と話す。
このように、理解や感情を巡らせて、君主や父母から離れる事ができ得ず、妻子や眷属を捨てる事ができ得ず、世俗の人々の感情に従って、財宝を貪っている間に、一生を空しく過ごしてしまい、まさしく、命が終わる時に当たって、後悔するであろう。
静かに坐禅して道理を思案して、速やかに、「悟りを求める心を起こそう」と決意するべきである。
君主も父母も、自分に悟りを与える事はできない。
妻子も眷属も、自分の苦しみを救う事はできない。
財宝も、自分の輪廻転生を断ち切る事はできない。
世俗の人々も、自分を助ける事はできない。
「器ではない」と言って、修行しなければ、いずれの劫でも、真理を会得できない!
ただ、万事を捨てて、専念して、仏道を学び修行するべきである。
「後の時間が有る」と思うなかれ。
第百五章
道元は、僧達に示して、次のように、話した。
仏道を学び修行するには、自我を離れるべきである。
たとえ、幾千の仏経や、幾万の経論を学んで会得しても、自身への執着を離れなければ、終に、「魔」、「仏敵」の穴に落ちてしまうであろう。
古代の先人は、「もし、仏法の心身が無ければ、仏や祖師に成れない!」と話している。
「自我を離れる」とは、自身の心身を仏法という大海に投げ捨てて、苦しくても、心配でも、仏法に従って修行する事なのである。
「もし、乞食をしたら、他人は、それを『悪い』とか『醜い』と思うであろう」と思ってしまう間は、どのようにしても、仏法に入門でき得ないのである。
世俗の人々の感情や見解を全て忘れて、ただ、道理に任せて、仏道を学び修行するべきである。
自身の器量を顧みて、「仏法に適わない」等と思ってしまうのも、自身への執着を持っているからなのである。
人目を顧みて、人々の感情を恐れてしまう事は、自身への執着の本と成ってしまうのである。
ただ、仏法を学ぶべきである。
世俗の人々の感情に従うなかれ。
第百六章
懐奘が、ある日、次のように、質問した。
寺で、勤勉に学ぶ日常の所作とは、どのような物なのでしょうか?
道元は、示して、次のように、話した。
坐禅に打ち込むのに専念する事なのである。
あるいは、高い建物の上部で、あるいは、建物の下で、「定」を営み、他人と交流して雑談せず、耳が聞こえない者であるかのように、話せない者であるかのようにして、常に、独りで坐禅するのを好むべきなのである。
第百七章
道元は、ある日、説法のついでに、僧達に示して、次のように、話した。
泉大道は、「風に向かって坐禅し、太陽に向かって眠る。時の人が錦を着ているよりも優れている」と話している。
この言葉は、古代の先人の言葉であるが、少し疑問が有る。
「時の人」とは、世間の利益を貪る人の事を言っているのか?
もし、そうであるならば、比較してしまうのは、最も下らない。
言うまでもない!
もしくは、仏道を学び修行する人の事を言っているのか?
そうならば、なぜ、「錦を着ているよりも優れている」と言ってしまっているのか?
この言葉の真意を察すると、なお、錦を重んじてしまう心が有るように聞こえてしまう。
聖人は、そうではない。
黄金も宝玉も、瓦礫も、等しく、執着する事が無い。
そのため、釈迦牟尼仏は、「牧牛女」、「牛飼いの娘スジャータ」から乳粥を得て食べたし、馬麦を得て食べたのである。
いずれも、等しくしたのである。
ものに軽重は無い。
人には、浅い深いが有るのである。
今、黄金や宝玉を他人に与えようとすれば、(僧は)「重い」として受け取らない。
また、木や石などは「軽い」として受け取って愛着する。
黄金や宝玉は、本より、土の中から得たのである。
木や石も、大地より生じたのである。
どうして、一方を「重い」として受け取らず、他方を「軽い」として愛着するのか?
その心を思案すると、貴重な物を得てしまっては、執着してしまう心が有るからではないか?
貴重ではない物を得ても、愛着してしまう心が有れば、罪は同じなのである。
これは、未だ学ぶべき物が有る人である僧が用心するべき事なのである。
第百八章
道元は、僧達に示して、次のように、話した。
道元の亡き師である明全 和尚が宋の時代の中国に入国しようとした時、明全の師である比叡山の明融 阿闍梨が重病に成ってしまい、床に伏せって死にそうに成った。
明融は、その時、次のように、話した。
私、明融は、老いて病気に成ってしまい、死が近くに有る。
今回は、一時、中国への入国を思いとどまって、私、明融の病気を看護して、死を弔って、そうして死後、その本意を遂げるべきである。
明全は、その時、弟子達や、縁が有る僧達などを集めて相談して、次のように、話した。
私、明全は、幼少の時、両親の家を出て以降、明融による養育を受けて、今まで成長できたのである。
その養育の恩は、最も重いのである。
また、世俗を出ている仏法や、大小の、仮の便宜的な方法や真実の仏教の経文や、因果をわきまえ、善悪を知って、同期を超越して、名声を得た事や、仏法の道理を知って、今、中国へ入国して仏法を探求する志を起こした事までも、全て、明融の恩による物なのである。
明融は、今年、老いが極まってしまい、重病に成ってしまい、床に伏せている。
余命は、あまり無いであろう。
(中国へ行ってしまったら、生きて)再会するのは期待できないであろう。
そのため、明融は、無理に、引き留めたのであろう。
師である明融の命令にも背くのは難しい。
今、身の命を顧みず、中国に入国して、仏法を探求するのも、菩薩の大いなる慈悲で利益を生者達にもたらすためなのである。
師である明融の命令に背いて中国へ行く道理は有るのか? 否か?
各々、思う所を述べて欲しい。
諸々の弟子や、諸々の人々は皆、次のように、話した。
今年の中国への入国は、思いとどまるべきです。
師である明融の老病死は、極まってしまっています。
死は決定しているでしょう。
今年だけ思いとどまって、来年、中国に入国すれば、師である明融の命令にも背かないし、重い恩も忘れずに済みます。
今、一年や半年、中国への入国が遅れても、何の支障が有るでしょうか?
明融と明全、師弟の本意は矛盾しません。
中国に入国する本意も思い通りに成るでしょう。
私、道元は、その時、後進の者であったが、次のように、話した。
仏法の悟りは、今は、「これで良いであろう」と思うのであれば、思いとどまるべきです。
明全は、次のように、話した。
その通りである。
仏法の修行は、「これで良いであろう」と思う。
終始、今のままであれば、「世俗を出て離れて、真理を会得できるであろう」と思う。
私、道元は、次のように、話した。
そうならば、思いとどまるべきです。
このように各々が意見を述べ終わると、明全は、
「各々の意見は、どれも、皆、思いとどまるべきである道理ばかりであった。
私、明全の考えは、そうではない。
今回、思いとどまっても、死ぬのが決定している人であれば、思いとどまる事によって命を保持できる訳でもない。
また、私、明全が思いとどまって看病、介護したとて、苦痛も止められないであろう。
また、最期に、私、明全が、明融に接して勧めても、明融が生死(、輪廻転生)を離れる事ができる道理が有る訳でもない。
ただ、一時、命令に従って、明融の心を慰める事ができるだけなのである。
世俗を出て離れて真理を会得するためには、一切、何の役にも立たないのである。
誤って、私、明全の仏法を探求する志を妨げてしまえば、罪業の原因とも成ってしまうであろう。
もし、中国に入国して仏法を探求する志を遂げて、少しでも悟りを開けば、一人の煩悩が有る迷っている感情が有る人に背いてしまっても、多数の人が真理を会得する原因と成る事ができるであろう。
その功徳が、もし、優れていれば、明融の恩にも報いる事ができるであろう。
たとえ、航海の途中で死んでしまって、本意を遂げられなくても、仏法を探求する志によって死ねば、生から生へ願いは消え尽きない(で記憶している)であろう。
玄懐奘三蔵の行跡を思うべきである。
一人のために、失いやすい時間を空しく過ごしてしまうのは、仏の心に適わないであろう。
そのため、今回の中国への入国は、完全に、思い切って、決心し終わっている」
と話して、終に、中国へ入国した。
明全には真実の、悟りを求める心が有るのは、このような道理なのである。
そのため、今の、未だ学ぶべき物が有る人である僧も、あるいは、「父母のため」とか、あるいは、「師匠のため」と言って、無意味な事を行ってしまって、いたずらに無駄に、時間を失ってしまって、諸々の道よりも優れている仏道をさしおいてしまって、空しく時間を過ごすなかれ。
懐奘は、その時、次のように、質問した。
真実の、仏法の探求のためには、人為的な父母や師匠や恩愛による障害と成ってしまう縁を完全に(泣く泣く)捨てるべきである道理は、「実に、その通りである」と思います。
ただ、父母や師匠の恩愛などのほうは完全に(泣く泣く)捨ててしまうのに、菩薩の修行をしている時は、自身の利益をさしおいて、利益を他者にもたらすのを優先とするのでしょうか?
老いた師が重病で他人による助けも無く、幸い、私、一人だけが介護にあたっているのに、自身の修行だけを思って、老いた師を助けなければ、菩薩の修行に背いてしまうのに似ていませんか?
「大士」、「菩薩」の善行を嫌っている訳ではありません。
縁に従い、折りに触れて、仏法を学ぶべきではないでしょうか?
もし、このような道理であれば、修行を止めて、助けるべきではないでしょうか?
どうして、独りでの仏法の探求だけを思って、老いた病気の師を助けないのでしょうか?
どうでしょうか?
道元は、僧達に示して、次のように、話した。
利益を他者にもたらす修行も、自身に利益をもたらす修行も、ただ、劣っているほうを捨てて、優れているほうを取れば、「大士」、「菩薩」の善行と成るであろう。
「老いや病気を助けよう」と言って、「水菽の孝をする」、「貧しくても親孝行をする」のは、ただ、今の生だけの、一時の妄りな愛着や、迷っている感情が有る者の喜びでしかないのである。
迷っている感情が有る者達の人為的な物に背いて、「無為」、「消滅しない不変の絶対の真理」の仏道を学ぶのは、たとえ、遺恨は残っても、世俗を出る優れた縁と成るであろう。
これを思いなさい。
これを思いなさい。
第百九章
道元は、ある日、僧達に示して、次のように、話した。
世間の人々は、多くが、「私は、師の言葉を聞いても、自分の心に適わないのです(。心に響きません)」と話している。
この言葉は、正しくないのである。
師の言葉の意味が、どういう事なのか、分からないのか?
もしくは、仏教などの道理が、自分の心に反していて、「正しくない」と思ってしまうのか?
このような人は、全くの凡庸な愚者なのである。
または、師が話している言葉が、自分の心に適わないのか? (心に響かないのか?)
もし、そうであるならば、どうして、本より、師に質問したのか?
また、日頃の感情や見解によって、そう話してしまうのか?
もし、そうであるならば、それは、「最初」からの妄りな思いなのである。
仏道を学び修行する用心とは、自分の心に反しても、師の言葉が仏教の言葉や道理であるならば、完全に、その言葉に従って、本からの自身に執着した狭い物の見方を捨てて、改めていく事なのである。
このような心が、仏道を学び修行する第一の先例なのである。
私、道元の昔の同期の僧の中に、自身と自身の見解に執着して、善知識を持つ人々を訪ねている者がいた。
その僧は、自分の心に反する言葉を「心から納得でき得ない」と言ってしまって、自身と自身の見解に適う言葉に執着してしまって、一生を空しく過ごしてしまって、仏法を会得できなかった。
私、道元は、その僧を見て、智慧を発揮して、「仏道を学び修行するには、その僧のようにしてはいけない」と知った。
このように思い知って、師の言葉に従って、完全に道理を会得した後、経を読んでいると、ある経に「『仏法を学ぼう』と思うならば、過去や現在や未来の心を持ち続けるなかれ」と記されているのを見た。
実に、「以前の諸々の思いや古い見解を記憶して保持せず、次第に、改めていくべきなのである」という事を知った。
ある書物には、「忠告や助言は、耳に逆らってしまって、聞く耳を持って聞き入れ難い」と記されている。
この言葉の意味は、自分のための真心が有る言葉は、必ず、耳に反してしまって、聞く耳を持って聞き入れ難いのである。
耳に反してしまって、聞く耳を持って聞き入れ難くても、強いて従って修行すれば、結果、(真の)利益が有るのである。
第百十章
道元は、ある日、雑談のついでに、僧達に示して、次のように、話した。
人の心は、本より、善だけや悪だけではない。
善悪は、繋がりに従って、起こるのである。
例えば、人が、悟りを求める事を思い立って心して、山や林に入る時は、林の下は「善い」が、人々の間は「悪い」と思える。
また、心が退屈して、山や林を出てしまう時は、山や林は「悪い」と思ってしまう。
このため、決定的に、心には決まった形が無いのである。
繋がりによって、どうにでも成ってしまうのである。
そのため、善い縁に出会えば、心は善く成るし、悪い縁に近づいてしまえば、心は悪く成ってしまうのである。
「自分の心は、本より、悪だけである」と思うなかれ。
ただ、善い縁だけに従うべきなのである。
第百十一章
道元は、また、次のように、話した。
「人の心は、決定的に、他人の言葉に従ってしまいやすい」と思われる。
「大論」、「大智度論」には、次のように、記されている。
例えば、愚かな人が手に「摩尼珠」、「宝玉」を持っているような物なのである。
他人が、それを見て「あなたは下劣である。(従者に持たせるのではなく、)自ら手に物を持っている」と話しているのを聞いて、「宝玉は惜しいが、評判は影響が深刻である。自分は下劣に成りたくない」と思ってしまう。
思い悩んで、名声に心惹かれて、他人の言葉によって、宝玉を置いてしまい、「他人に持たせよう」と思っている間に、終に、宝玉を失ってしまった。
人の心は、このような物なのである。
ある程度、「ある言葉は自分にとって善い」と思えても、評判に妨げられて、その言葉に従わない人もいるのである。
また、ある程度、「自分にとって悪い事である」と思いながらも、名声のために、まず、従ってしまう人もいるのである。
善にも、悪にも、従ってしまう時は、心は、善悪の間で揺れ動いてしまうのである。
そのため、どんなに、本から、悪い心であっても、善知識を持つ人々に従い、善良な人に慣れ親しめば、自然に、心も善く成るのである。
悪人に近づいてしまえば、自分でも心で最初は「悪い」と思っていても、終に、悪人の心に従ってしまって慣れ親しんでしまうのに応じて、知らずに、やがて、実に、心は悪く成ってしまうのである。
また、人の心は、「絶対に他人に物を与えない」と思っていても、他人が強いて要請すれば、「嫌だなぁ」と思っても、嫌々ながら、与えてしまうのである。
また、「絶対に与えよう」と思っていても、機会が無くて、時間が過ぎてしまえば、その気持ちが無くなってしまう事も有るのである。
そのため、未だ学ぶべき物が有る人である僧は、たとえ、悟りを求める心が無くても、善良な人達に近づき、善い縁に出会ったら同じ事でも善い物事を何度も見聞きするべきなのである。
「この言葉は一度、聞いた事が有るので、重複して聞くべきではない」と思うなかれ。
悟りを求める心を一度、起こした人は、同じ事でも、聞くたびに、心が磨かれて、ますます、精進するのである。
また、悟りを求める心が無い人も、一度目や二度目は心惹かれなくても、度々聞けば、霧や露の中を歩いて行った時に、いつ濡れたか分からなくても、自然に、衣服が潤うように、善良な人の言葉を何度も聞けば、自然と、恥じ入る心も起こるし、真実の、悟りを求める心も起こるのである。
そのため、知っていても更に、仏教を何度も見聞きするべきなのである。
師の言葉も、聞いた事が有っても更に、重複して聞くべきなのである。
(そうすれば、)ますます、心が奥深く成っていくのである。
仏道を学び修行する障害と成るかもしれない物事に、複数回、近づくなかれ。
善知識を持つ人々には、苦しくても、心細くても、近づいて、仏道修行するべきなのである。
第百十二章
道元は、僧達に示して、次のように、話した。
大慧 禅師は、ある時、尻に腫れ物が出来て、医師が、それを見て「一大事な物である」と話した。
大慧 禅師は、次のように、話した。
「一大事な物であるならば、死んでしまうのか? 否か?」
医師は、次のように、話した。
「ほぼ死んでしまう危険性が有ります」
大慧 禅師は、
「もし、死んでしまうのであれば、(逆に、)ますます、坐禅するべきである」
と話して、強いて坐禅していたら、その腫れ物が膿んで潰れて、命に別状は無かった。
古代の先人の心は、このような物であったのである。
病気に成ったら、(逆に、)ますます、坐禅したのである。
今の人達は、病気が無いのに、坐禅を緩めるなかれ。
「病気は、心に従って、好転したりするかなぁ」と思われる。
世間でも、しゃっくりをしている人に、嘘で辛い事を話したら、その人が「辛い事である」と思い、心に響いて、意見を陳述しようとしている時には、しゃっくりを忘れていて、しゃっくりが止まった、という話が有る。
私、道元も、昔、宋の時代の中国に入国する時、船の中で、お腹を壊した際、都合の悪い風が吹いて船中の人々が騒いだ所、病んでいるのを忘れて、治った。
このため、「仏道を学び修行するのに勤労して、他の事を忘れれば、病気も起こり難い」と思われる。
第百十三章
道元は、僧達に示して、次のように、話した。
俗世の民間のことわざでは、「話す事ができないかのようにし、耳が聞こえないかのようにしなければ、一家の主人には成れない」と言われている。
この言葉の意味は、(家族や)他人の悪い所を言わず、(家族や)他人の悪口を聞かなければ、自分の仕事に成功する、という事なのである。
このような人を、家族は、一家の偉大な人とするのである。
これは民間のことわざではあるが、これを取り入れて、僧の日常の所作に利用するべきである。
他人からの悪口に取り合わず、他人からの恨みに取り合わず、他人の善悪を言わなければ、仏道修行できるのである!
骨身に染みるまで徹底している者は、このように、でき得るのである。
第百十四章
道元は、僧達に示して、次のように、話した。
大慧 禅師は、次のように、話している。
仏道を学び修行するには、ある人が幾千、幾万の金銭の負債を負っているが一銭も持っていないのに返済を求められて責められている時の心のように、修行するべきである。
もし、このような心が有れば、真理を会得するのは、簡単なのである。
「信心銘」には、次のように、記されている。
至高の仏道は、難しくはない(。簡単なのである)。
ただ、(仏道は、)選り好みを嫌うのである。
選り好みする心さえ捨てれば、直に、悟りを会得できるのである。
「選り好みする心を捨てる」とは、自我を離れる事なのである。
「仏道を修行する代わりに利益を得るために、仏法を学ぼう」と思うなかれ。
ただ、仏法のために、仏法を修行するべきなのである。
たとえ、幾千の仏経や、幾万の経論を学ぶ事ができ得て、坐禅で床を破るほどでも、このような心が無ければ、仏や祖師達の真理を会得できないのである。
ただ、心身を捨てて仏法の中に置いて、他者である善知識を持つ者達に従って、古い見解を無くせば、直に、悟りを会得できるのである。
第百十五章
道元は、僧達に示して、次のように、話した。
古代の先人は、「所有している、『庫司』を務めている僧が管理している財産や穀物を、因果を知っている『知事』を務めている僧に分担させて付属し、更に司る僧達に分担させ、更に部局を連ねて用意して司らせる」と話している。
この言葉の意味は、寺院の主人は、寺院の大小の事に全く関わらず、専念して工夫して坐禅に打ち込んで、僧達を(悟りに)勧誘するべきである、という事なのである。
また、(古代の先人は、)次のように、話している。
「良い田畑が広大であるよりも、中途半端でも芸を身につけている事には及ばないのである。
恩を施しても、報いてもらえる事を望まない。
他人に与えて、後悔するなかれ。
鼻を守るように、口を守れば、幾万の災難も訪れない」
「善行が気高く多ければ、他人は自然と、その人を重んじる。
才能が多ければ、他人は自然と、帰依して降伏するのである。
深く耕して、浅く植えても、なお、天災は有るのである(。仕方がない)。
自身に利益をもたらす代わりに他人に損害を与えると、悪い果報が有る!」
仏道を学び修行する人は、「話頭」、「公案」、「修行者の手がかりとしての仏や祖師達の言動」を見る時は、(見る)目を近づけて、力を尽くして、よくよく見るべきである。
第百十六章
道元は、僧達に示して、次のように、話した。
古代の先人は、「百尺の竿の先頭で、更に一歩、歩みを進めるべきである」と話している。
この言葉の意味は、十丈の竿の先に上って、手足を離して、心身を捨てるようにするべきである、という事なのである。
これに関して、重々承知して欲しい事が有る。
今の僧は、世俗を逃れて出家した僧に似ているが、その日常の所作を考えると、実に、(真の)出家者が世俗を逃れた日常の所作ではないのである。
いわゆる、出家とは、第一に、まず、自我や名声や利益から離れるべきなのである。
これらから離れなければ、頭が燃えているのを払うように仏道修行しても、爪先で立つほど望んで精進しても、ただ、道理が無い勤労にしか過ぎず、俗世を出て離れている事には成らないのである。
宋の時代の中国でも、離れ難い恩愛を(泣く泣く)離れ、捨て難い世俗の財産を捨てて、寺に交ざり、祖師達の道場に居場所を得ている人もいるが、詳細に、このような先例を知らないで修行してしまうので、真理を悟れず、心を明らめる事ができず、いたずらに無駄に、一生を空しく過ごしてしまう者もいるのである。
なぜなら、人の心も、初めは、悟りを求める心を起こして、僧に成り、善知識を持つ人々に従っても、「仏と成ったり、祖師と成ったりしよう」と思わないで、「身分の高貴さや、自分の寺の高貴さを、在家信者にも知られ、親類や眷属にも言い聞かせ、他人に敬礼されて捧げものを捧げてもらおう」と思ってしまい、あまつさえ、「僧達は皆、善くないが、私、独りだけ、悟りを求める心が有り、善人である事を便宜的な方法によって言い聞かせ、思い知らせよう」とする様子を見せてしまう場合も有るのである。
これらのような人は、取りあげて話すまでも無い矮小な者ども、五人の一闡提などのような悪い「比丘」、「出家者」のような者どもなのである。
必ず地獄に堕ちてしまう心ばえなのである。
このような者どもを、物も知らない完全に無知な在家信者は、「悟りを求める心が有る者、高貴な人である」と思ってしまうのである。
このような者どもよりも少しはましで、在家信者の財産を貪らず、父母や妻子を(泣く泣く)捨て尽くして、寺に交ざって仏道修行する者もいるが、本性が怠惰な者は、ありのままに怠けるのは恥ずかしいので、長老、首座などが見ている時は身構えて仏道修行するふりをするが、見ていない時は、折りに触れて、怠けて、いたずらに無駄に日々を送る者もいる。
このような者どもは、在家信者で、このように善くない者よりはましだが、なお、自我や名声や利益を捨てる事ができ得ていないのである。
また、総じて、師の心も兼ね合わせて考えず、首座や、兄弟が見ていても見ていなくても顧みず、常に「仏道は他人のためではなく自身のための物なのである」と思ってしまって、「自分のような心身を持つ者こそ、仏と成ったり、祖師と成ったりするであろう」と思ってしまって、実に、勤めて営んでしまう人もいる。
このような者どもは、前述の人々よりは、「真実の、悟りを求める心が有る者ではないか?」と思えてしまうが、このような者どもも、なお、「自身を善くしよう」と思ってしまって修行しているので、なお、未だ自我を離れていないのである。
また、「諸々の仏や菩薩に自分の善行を喜んでもらおう」と思ってしまい、「仏という結果、覚を成就しよう」と思ってしまう人も、「自分だけが利益を得よう」という欲望や、名声や利益への欲望の心を、なお、捨てる事ができ得ていないのである。
前述の者どもは、未だ、百尺の竿の先頭から離れず、取りついているような物なのである。
ただ、心身を仏法に投げ捨てて、更に、真理を悟ったり、仏法を会得したりする事までをも望む事無く、修行する人を「汚染されていない仏道修行者」と言うのである。
「仏がいる所でも留まらず、仏がいない所でも急いで走り過ぎる」と言う言葉の意味は、このような心を持つ事なのである。
第百十七章
道元は、僧達に示して、次のように、話した。
衣服や食糧の事を、かねてから事前に、思うなかれ。
もし、食べ物が無くて料理する火の煙が絶えてしまったら、その時に臨んで、乞食するのである。
「あの人の所に乞食しよう」等と思っておいてしまうのも、物を蓄えてしまう「邪命食」なのである。
僧のうち、雲のように決まった住所も無く、水のように流れ歩いて行って、頼る所も無い僧こそ、「真の僧」と言うのである。
たとえ、僧衣や器以外に一つも物を持たなくても、一人でも在家信者を頼ってしまったり、一人でも親族を頼ってしまったりするのは、自身も他者も共に縛られてしまい、「不浄食」なのである。
このような「不浄食」などによって、養い保持している心身では、「諸仏の清浄な大いなる仏法を悟ろう」と思っても、とても叶わないのである。
例えば、藍で染めた物は青く成るように、檗で染めた物は黄色く成るように、「邪命食」による心身で仏法に臨んでしまうのは、沙を圧縮して油を求めるように、不可能なのである。
ただ、その時に臨んでから、兎にも角にも、道理に適うように、はからうべきなのである。
かねてから事前に、あれこれ思ってしまったり、蓄えてしまったりするのは、皆、違反なのである。
よくよく思いはかるべきなのである。
第百十八章
道元は、僧達に示して、次のように、話した。
未だ学ぶべき物が有る人である僧は、各々、知るべきである。
人々には、大いに善くない所が有り、傲慢は第一の善くない所なのである。
仏教内外の経典や書籍は等しく、傲慢を戒めている。
仏教外の経典では、「貧しくても、へつらわない事は有っても、富んで傲慢に成らない事は無い」と話していて、「富を制止して、傲慢に成らないようにしよう」と思うのである。
最も、これが、大事なのである。
よくよく、これを思うべきなのである。
自身は下賤なのに、「高貴な人に劣らない」と思ってしまったり、「他人よりも優れている」と思ってしまったりするのは、ひどく傲慢なのである。
けれども、これは、戒めやすいのである。
また、世間で、自身が財宝に豊かで幸福も有る人は、眷属が囲んで敬礼するし、他人も許してくれる。
それを「善い」として傲慢に成るので、そばの下賤な人は、それを見て嫉妬し、心が傷つくのである。
他人の心を傷つけてしまうのを、自身が富んで高貴な人は、どのように慎むべきであるのか?
このように自身が富んで高貴な人は、戒め難いし、自身も慎む事ができない物なのである。
また、傲慢な心が無くても、ありのままに振る舞ってしまえば、そばの下賤な人は、嫉妬し、心が傷つくのである。
そう成らないように、よく慎む事を「傲慢を慎む」と言うのである。
自身の富は果報に任せて、貧しい下賤な人が見て嫉妬するのを考慮しない事を「傲慢な心」と言うのである。
仏教外の経典には、「貧しい人の家の前を車に乗って通り過ぎるなかれ」と記されている。
そのため、自身は朱色の豪華な車に乗る事ができても、貧しい人の前を通るのを遠慮するべきなのである。
仏教内の経典にも、同様の事が記されている。
けれども、今の僧は、「智慧や仏法によって他人に勝つべきである」と思ってしまうのである。
決して、智慧や仏法によって傲慢に成るなかれ。
自分よりも劣っている人の善くない所を話したり、あるいは、先人や同期などの善くない所を知って話したり非難したりするのは、ひどく傲慢なのである。
古代の先人は、「知者の近くでは負けても善いが、愚者の近くでは勝つなかれ」と話している。
自分が良く知っている事について、他人の心得方が悪くても、他人の善くない所を話すのは、自身が善くないのである。
仏法について話すにしても、先人や先輩を非難せず、また、無知蒙昧な愚かな人が嫉妬しやすい事なので、よくよく考慮するべきなのである。
私、道元が建仁寺にいた時も、人から仏法などについて質問される事が多かった。
それらの質問の中には、善くない質問も有ったが、傲慢について深く考慮して、ただ、ありのままに仏法の功徳を語って、他者の善くない所は、話さず、何もせずに、やめた。
愚者による見解への執着は深いので、私達の先人の高徳の僧の善くない所を話したとしても、必ず、(愚者は)怒りの心を起こすのである。
真実に智慧が有る人は、仏法の道理を心得たら、他人に言われなくても、自分の善くない所と、先人の高徳の僧の善くない所を思い知って、改めるのである。
前述などの事をよくよく思い知るべきである。
第百十九章
道元は、僧達に示して、次のように、話した。
仏道を学び修行する上で、最も重要なのは、坐禅で、第一なのである。
中国の人達の多くが、真理を会得できたのは、皆、坐禅の力による物なのである。
一文字にも通じていない無学な非才な愚かな人も、坐禅に専念すれば、その禅定の功徳によって、多年の長い間、学んでいる聡明な人よりも優れる事ができるのである。
そのため、未だ学ぶべき物が有る人である僧は、坐禅に打ち込むのに専念して、他の事に関わるなかれ。
仏や祖師達の仏道とは、坐禅なのである。
他の事に従うべきではない。
第百二十章
懐奘が、ある時、次のように、質問した。
坐禅に打ち込むのと、読むのを並行して学んでいると、語録や「公案」、「修行者の手がかりとしての仏や祖師達の言動」などを見ると、百や千に一つでも、少々、心得る事も出来ます。
坐禅には、それほどの霊験や効果は無いです。
けれども、なお、坐禅を好むべきなのですか?
道元は、次のように、答えた。
「公案」、「修行者の手がかりとしての仏や祖師達の言動」を見て、少々、知覚が有る様でも、仏や祖師達の仏道から遠ざかってしまう因縁に成ってしまうのである。
得ようとする事が無く、悟ろうとする事が無く、端正に坐禅して、時を過ごせば、祖師達による教えに従っているのである。
古代の先人も、読む事と、坐禅に専念する事を共に勧めているが、なお、坐禅を優先して勧めているのである。
また、「話頭」、「公案」、「修行者の手がかりとしての仏や祖師達の言動」によって悟りを開いた人もいるが、それも、坐禅の功徳が悟りを開く原因と成ったのである。
正しい功徳は、坐禅による物なのである。




