第9話 孤立
ある日、師長が新しい新人を連れてきた。
「今回、新しく配属になった高橋さんです。精神科で一年経験があるそうなので、そのつもりでお願いします」
「早速だけど、プリセプターは相沢さんで」
「了解しました」
相沢は笑顔で立ち上がった。
「よろしくね、高橋さん」
「高橋です。よろしくお願いします」
挨拶が終わると、師長はすぐに詰所を出ていった。
「さて、高橋さん。今日は初日だから、私についてきて」
相沢は高橋に次々と声をかけた。
「精神科経験があるなら、鍵もすぐ持てそうだね。前の病院ではどうだった?」
「カードキーでした。普通の鍵と混在していました」
「そうなんだ。ここは全部同じ鍵だから、その方が楽かもしれないね」
そう言うと、相沢は携帯を取り出した。
「師長ですか? 高橋さんですけど、鍵の扱いは問題なさそうなので、今日から使わせていいですか?」
電話を切ると、相沢は高橋を見た。
「よかったね。今日から鍵使えるって。みんな一ヶ月くらい持てないから不便なんだよね」
そして、こちらを見る。
「ねえ、神谷さん」
「……そうですね。不便でした」
少しだけ、言葉に詰まった。
「神谷さん、緊張しなくていいよ。高橋さんは経験者だから。神谷さんより動けるかもね」
相沢は笑った。
けれど、目は笑っていなかった。
「高橋さん、師長室に行って鍵を受け取ってきてくれる? 私は少しすることがあるから、神谷さんと一緒に行って」
相沢はそう言うと、詰所を出ていった。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい、お願いします」
師長室へ向かう途中、私は迷っていた。
言うべきか。
それとも、黙っているべきか。
少し考えたあと、私は口を開いた。
「高橋さん」
「はい?」
「少し言いにくいんですけど……相沢さんのことで」
高橋は首を傾げた。
「少し、指導が厳しすぎるところがあるので。気をつけてください」
高橋は少し驚いた顔をした。
けれど、すぐに笑った。
「ああ、大丈夫です。私、メンタル強い方なんで。多少厳しいくらいなら慣れてます」
「……そうですか。なら、いいんですけど」
私はそれ以上言えなかった。
師長室に入り、高橋が鍵を受け取る。
「相沢さんは、本当に先読みが上手いんだよ。こちらも助かってる。盗める技術は盗んだ方がいい」
師長は満足そうに笑った。
まただ。
師長は相沢を褒める。
何も知らない。
上辺だけしか見ていない。
実績。
判断の速さ。
仕事の上手さ。
それだけだ。
私が目指したいのは、白石さんみたいな人なのに。
そんなことを考えていると、師長がこちらを見た。
「神谷さん、顔色悪いけど大丈夫? 最近、眠れてないのかい?」
「少し、眠りが浅くて」
「無理しないで。横になっててもいいんだよ」
「大丈夫です。もうすぐ昼休みなので」
「そうか。何かあったら相沢さんに相談して」
その言葉に、胸の奥が沈んだ。
さらに師長は続けた。
「ああ、それと、白石さんにはしばらく他病棟の応援に行ってもらうことになった。だから、しばらくはこの病棟には戻れない」
心臓が止まりそうになった。
「……そうですか。分かりました」
危ない。
余計なことは言わない方がいい。
私と白石さんの繋がりを、相沢に知られてはいけない。
知られたら、何をしてくるか分からない。
今は何も知らないふりをするしかない。
白石さんがいても、いなくても、平気なふりをする。
詰所へ戻ると、相沢はもう高橋と二人で笑っていた。
その数日後。
休職していた看護師が病棟に戻ってきた。
村井さんではなかった。
私には見覚えのない人だったが、他のスタッフは知っているようだった。
けれど、どこかよそよそしい。
「みなさん、今までご迷惑をおかけしました。また、よろしくお願いします」
その人は深く頭を下げた。
相沢が横で微笑む。
「そういうことです。これからこの病棟で一緒に働くことになった朝倉美月さんです。神谷さんは初めてだったかな。ちょうど入れ替わりで休職したからね」
相沢は続けた。
「でもキャリア的には十年選手だから、神谷さんよりだいぶベテランですよ」
どこか引っかかる言い方だった。
「朝倉さん、こちらは神谷さん。まだ一年足らずなんですが、真面目で丁寧なのでよろしくね。ただ、真面目すぎる面があるからね。そこらへんも朝倉さんが教えてくれると助かります」
「よろしくお願いします」
「お願いします」
朝倉さんは小さく答えた。
見た感じは大人しそうで、どことなく自分と重なって見えた。
そのとき、私は気づいた。
右手首から先まで包帯をしている。
挨拶のとき、手を後ろに回していたから分からなかった。
けれど、他のスタッフの位置からは見えていたはずだ。
誰も触れない。
相沢も触れない。
相沢が気づかないはずはない。
何かが、ズレている。
「その包帯はどうしたんですか?」
朝倉さんは少し間を置いてから答えた。
「ああ、これは……先日、歩いていたときにつまずいて転んでしまって。思ったより傷が深くて、毎日消毒が必要なんです」
「仕事は大丈夫なんですか?」
「ええ。師長から、当分の間は看護業務ではなく、雑務を優先するように言われています」
「そうなんですね」
朝倉さんは、どこか歯切れの悪い返事をして事務所へ向かった。
その後、岡田さんが私のところへ来た。
「あんまり、あの人とは関わらない方がいいよ」
「なんでですか? 十年選手って相沢さんが言ってましたけど」
「あれは皮肉だよ」
岡田さんは声を落とした。
「朝倉さんは、日勤をしたことが数えるくらいしかないんだよ。ここ十年」
「えっ……なんでですか?」
「こっちが聞きたいくらいだよ。病気だ、怪我だ、事故だって言って、休むか早退の繰り返し。時々、長期休職。それでも病院は辞めさせない」
「どうしてですか?」
「親が理事長と古くからの付き合いらしい。病院にもずいぶん支援してるって噂もある」
岡田さんはさらに続けた。
「毎回、休むたびに菓子折りを持ってくるんだよ。この病棟だけじゃない。関わったところ全部に」
どこまでが事実かは分からない。
でも、休みがちなのは事実らしい。
そして、周りが朝倉さんを避けていることも。
相沢にとって、朝倉さんは非効率そのものだ。
絶対に排除しようと考えている。
そう思った。
朝倉さんが危ない。
何とかしないと。
その日の退勤後、私は白石さんを待った。
三十分ほどして、白石さんが病院から出てきた。
「白石さん。少しだけ、いいですか?」
「神谷さんか。こんな時間まで待っていたのかい。ここじゃなんだ。場所を移そう」
連れて行かれたのは、こぢんまりとした飲み屋だった。
「白石さん、いらっしゃい。珍しいですね、お連れさんがいるなんて」
「同じ病院で働いている神谷さんだ」
「神谷です。よろしくお願いします」
通された小さな部屋で、白石さんはビールを二つ頼んだ。
「どうだい、神谷さん。これが普段の私だ。病院とは違うだろう」
「はい。なんというか、自然体というか……病院でも自然体なんですが、ここではどこか自由を感じます」
白石さんは静かに笑った。
「なかなかいい答えだね。でも、不十分かな」
「不十分、ですか」
「君は私を見て、自由で自然体だと言った。だが当の本人は、まだ本当の自分を見せてはいないと思っている」
私は何も言えなかった。
「では、逆に聞く。神谷さんは病院でもここでも、ほとんど同じに見える。それが本当の神谷さんですか?」
胸の奥を突かれた気がした。
答えられなかった。
「そうか。答えられないか。それとも、自分でもそれが何か分からないといったところかな」
白石さんはビールを一口飲んだ。
「今は、そのドキッとした感覚だけ覚えておくといい。後で必ず、気づくヒントになる」
私は、朝倉さんのことを話した。
右手の包帯。
周りの反応。
相沢の違和感。
そして、何かを企んでいるのではないかという不安。
白石さんは最後まで黙って聞いていた。
「なるほどね。朝倉さんか」
「知ってるんですか?」
「知っているも何も、私は四十年この病院にいる。彼女が入職した頃から知っているよ」
白石さんの声が少し低くなった。
「単刀直入に言う。彼女は問題を抱えている。しかも、生涯その問題と付き合っていかなければならない」
「その問題とは何ですか?」
「それは私の口からは言えない。そして、私が問題を抱えていると君に話したことも他言無用だ」
「……はい」
「ただ、これだけは言える。近いうちに必ず問題が起きる。その時に、神谷さんがどう対応するかにかかっているかもしれない」
「どういう意味ですか?」
白石さんは少しだけ目を細めた。
「神谷さん。何度も言うようだけど、何でも人から答えをもらう生き方だけは選んではいけない」
私は黙っていた。
「答えを教えることはできる。だが、大切なのは、答えに行き着くまでの思考のプロセスだ。必死に考えて出した答えには、実践力がある」
その言葉は重かった。
「手がかりは、いつも見えている」
帰り際、白石さんは言った。
「君は真面目すぎる。もっと力を抜きなさい」
そして、少し笑った。
「明日は明日の風が吹く」
その言葉に、祖母の声が重なった気がした。
「私はいつでも、神谷さんの味方だ」
白石さんはそう言って帰っていった。
私はしばらく、その場を動けなかった。
⸻
新たな配属と新たな違和感。
孤立が深まる中で、神谷さんは何を見るのか。




