第8話 白天使の過去
昼休み。
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私は最近、詰所で昼食を取らなくなっていた。
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あの空気が嫌だった。
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誰も本音を言わない。
目を合わせない。
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私は屋上へ行くようになった。
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誰もいない場所で、
一人で食べる。
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それが心地よかった。
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景色を見ながら、
何も考えない時間が欲しかった。
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その日も、
屋上には誰もいないと思っていた。
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けれど、
柵の前に人影があった。
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白石だった。
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「白石さん、どうしたんですか」
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「神谷くんこそ、なんでここにいるんだい」
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「私は、ここで食事をしています」
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白石は少し笑った。
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「そうか」
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「君も、人と一緒にいるのが窮屈になった口か」
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「……君も、ということは」
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「白石さんもですか?」
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私は驚いて聞いた。
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白石は、
誰とでも自然に話せる人だと思っていた。
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「神谷くんには、私はどう見えてる?」
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「うまく言えませんけど……」
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「一緒にいると安心できます」
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「穏やかでいられるというか」
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白石は少し考えるように空を見た。
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「私は君のプリセプターだけど、勤務の関係でいつも一緒にいるわけじゃない」
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「こうして話す機会も、そんなに多くない」
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「それなのに、君は私を信頼してくれている」
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「それは、なぜだと思う?」
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「優しいからです」
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「話を聞いてくれるし、責めない」
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「それだけかな」
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白石は、静かに続けた。
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「相沢さんも、優しいよね」
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「話も聞くし、患者にも丁寧だ」
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「ルールを守っていれば、責めることもない」
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「条件だけ見れば、そこまで違わない」
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「違います」
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私は、はっきり言った。
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「あの人は、目が笑ってない」
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「だから怖いんです」
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白石は、小さく笑った。
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「よく気づいたね」
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「人は、第一印象で相手をかなり見抜く力がある」
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「笑っていても、目が笑っていない人には違和感を覚えるようにできている」
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「ただ、それを隠せる人もいる」
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「詐欺師みたいにね」
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私は黙って聞いていた。
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「詐欺師に騙された人は、周りが何を言っても信じられないことがある」
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「逆に、相手をかばおうとする」
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「何か事情があったんだろうって、自分に都合よく考える」
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「何が本当かなんて、実際には分からないのかもしれない」
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「どうして、そんな話をするんですか?」
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白石は少し笑った。
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「神谷くんが、人を善人と悪人に分けて考えてる気がしたからかな」
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「私も、最初から今みたいだったわけじゃない」
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「若い頃は、もっとひどかったよ」
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「昔の精神科は、今みたいじゃなかった」
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白石の目が少し遠くなる。
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「薬も少なかったし、患者が暴れたら数人がかりで押さえて注射するしかなかった」
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「説得なんて余裕はない」
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「まず、落ち着かせることが優先だった」
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「拒否があっても、薬は無理やり飲ませてた」
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「先生の指示は絶対」
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「それが正しいと思ってた」
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私は言葉を失った。
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「でも、色々な事件が起きて」
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「虐待や死亡事故が問題になって」
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「少しずつ変わってきた」
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「それでも、日本はまだ精神疾患に対して厳しい社会だよ」
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「家族に精神病の人がいるって、簡単に言える空気じゃない」
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「日本は、恥の文化だからね」
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「でも、昔よりは変わってきてる」
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「いつか、本当に誰もが普通に暮らせる社会になると信じてる」
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私は、小さく息を吐いた。
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「すみません」
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「話が大きすぎて、まだよく分かりません」
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白石は笑った。
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「いいんだよ」
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「定年前のじじいの話だと思えばいい」
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「私は、そんな大きなことをしたいわけじゃない」
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「ただ、患者さんが安心して過ごせるようにしたいだけだ」
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「安心して、安全に」
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「それだけで十分なんだよ」
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その言葉を聞いて、
少し肩の力が抜けた。
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難しく考える必要はない。
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白石は、
ただ患者のために動いている。
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それだけだった。
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「白石さん、ありがとうございました」
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「勉強になりました」
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「いやいや、大したこと言ってないよ」
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白石は立ち上がった。
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そして、少しだけ真顔になる。
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「それより、相沢さんには気をつけなさい」
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「君のことを狙っている」
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「おそらく、師長に相談した頃からだろうね」
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「相手は、自分の敵だと思ったら徹底的に潰しにくる」
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「何かあったら助言はする」
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「でも、対処するのは神谷くん自身だ」
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「そうしないと、色んな人に迷惑がかかる」
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そう言って、
白石は屋上を後にした。
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屋上には、
風の音だけが残っていた。
「優しいだけでは続けられない。それでも、優しさを捨てたくない。」




