第10話 距離感
次の日から、私は強い孤立感を覚えるようになった。
理由は明白だった。
相沢は、高橋につきっきりになっていた。
村井さんのときとは全然違う。
高橋は明るく、仕事にも慣れていた。
「相沢さん、あの患者さんなんですけど、冬物しかなくて夏物がほとんどないんです。家族に連絡して持ってきてもらってもいいですか?」
「よく気づいたね」
相沢は笑顔だった。
「この家族は妹さんがキーパーソンだから、今の時間なら連絡つくと思うよ。携帯で大丈夫だからお願いできる?」
「はい、分かりました」
高橋はすぐに動いた。
「いいねえ」
相沢は満足そうに笑う。
「こちらが言わなくても、自分で仕事を見つけて終わらせる。本来は、みんながそうやって勝手に動けるのが理想なんだけどね」
そう言って、こちらを見る。
「神谷さん」
周りには誰もいなかった。
相沢の目は冷たかった。
今まで見たことがないほど、冷たかった。
しばらくして、高橋が戻ってきた。
「妹さんと連絡取れました。夕方には持ってきてくれるそうです」
「そうなんだ。よかったね。患者さんも安心するよ」
患者さんも安心する。
本気でそう思っているわけじゃない。
それでも、高橋には優しく見える。
私は、その場を離れた。
「配薬箱の確認をしてきます」
比較されたくなかった。
あの場にいたら、また皮肉を言われる気がした。
昼食後、私と高橋で配薬を始めた。
高橋が薬を読み上げ、私が確認して患者へ渡す。
「前橋さん、四月十七日、昼」
高橋が薬を渡した。
私はそのまま復唱した。
「前橋さん、四月十七日、昼ですね」
その患者は薬を見て、すぐに首を振った。
「これ、違うよ。私のじゃない」
確認すると、前橋けんじと前橋けんいち。
同姓の患者がいた。
私は思わず息を呑んだ。
「すみません」
患者に謝る。
「高橋さん、同姓がいる場合はフルネームでお願いします」
「すみません。前橋けんじさんですね」
高橋は薬を取り直した。
その瞬間、強い違和感が走った。
知らないはずがない。
精神科経験者なら、誤薬の怖さは分かっているはずだ。
同姓者がいるかどうか。
色分けされていること。
確認しないはずがない。
「高橋さん。同姓者がいる場合、フルネーム確認って知ってましたよね? 色分けもされていますし」
高橋は少し困ったように笑った。
「すみません。入ったばかりなので」
どこかで聞いた言葉だった。
ああ、なるほど。
「分かりました。私も確認不足でした。お互い、気をつけましょう」
「はい」
私が背を向けた瞬間、冷たい視線を感じた。
相沢と同じだった。
わざとだ。
私をはめようとしている。
その後、高橋は誤薬未遂の件を相沢に報告した。
「そう」
相沢は穏やかに頷いた。
「確認ミスなんて誰にでもあるから。気にしなくていいよ、高橋さん」
「今回は誤薬にはなってないし、インシデントでいいかな。書き方は分かる?」
「大丈夫です。後で提出します」
「処理が早いね」
相沢は笑った。
「ああ、それと神谷さんもインシデント書いてね。分からないところがあったら、高橋さんに聞いて」
そう言って、詰所を出ていった。
明らかに対応が違う。
村井さんのときは、少しのミスも許さなかった。
なのに、高橋には甘い。
酷すぎる。
退勤後、私はたまらず白石さんに連絡した。
白石さんは少し黙ったあと、一言だけ言った。
「誰かを助けたいなら、まず自分を守れ」
それだけ言って、電話は切れた。
画面には、未読のメッセージが一件だけ残っていた。
送り主は、相沢だった。
その数日後。
朝倉さんがいつものように出勤してきた。
「おはようございます」
右手の包帯は取れていた。
相沢はそれを見るなり、笑った。
「ああ、珍しい。五体満足でいるのを見るの、いつ以来だっけ」
朝倉さんの表情が、わずかに固まった。
「よかった。これで病棟業務できるね。今日からお願いね」
相沢は私を見る。
「神谷さん、朝倉さんが慣れるまでサポートお願い」
「はい、分かりました」
朝倉さんと一緒に病棟へ入る。
一部屋ずつ検温に回る。
特に問題はなかった。
けれど、患者との距離がかなり遠い。
必要以上に近づかない。
目を合わせすぎない。
余計な会話をしない。
まるで、自分を守るために壁を作っているようだった。
最後の部屋に差しかかったとき、一人の患者が朝倉さんに近づいてきた。
私はいつでも制止できる位置で見守っていた。
その患者は、朝倉さんを知っているようだった。
「朝倉さん、今日は五体満足なんですねえ。これからもよろしくお願いしますねえ」
相沢と同じ言葉。
偶然か?
考えを巡らせた瞬間、朝倉さんが突然怒鳴った。
「お前に何が分かるか!」
見ると、朝倉さんはしゃがみ込み、患者は棒立ちになっていた。
私は朝倉さんに駆け寄った。
「朝倉さん、何があったんですか?」
朝倉さんは興奮しながら、患者を指差した。
「あいつが私を馬鹿にした。あいつが、あいつが……」
ぶつぶつと同じ言葉を繰り返す。
患者は立ち去ろうとした。
「本当のことを言っただけだよ」
その瞬間、朝倉さんが立ち上がり、患者へ向かっていった。
「朝倉さん、やめてください!」
必死に止めようとしたが、ものすごい力で振りほどこうとする。
後から駆けつけた岡田さんと数名のスタッフで朝倉さんを止め、処置室へ連れて行った。
そこには、腕を組んだ相沢が待っていた。
私は一部始終を相沢に話した。
相沢はため息をつくと、一言だけ言った。
「終わったね」
すぐに携帯を取り出す。
「先生ですか。例の朝倉さん、やっぱりダメでした。これから外来の診察室に案内しますので、後をお願いします」
声は落ち着いていた。
落ち着きすぎていた。
「それから、患者に怒声を発して興奮したとのことなので、念のためにセレアキ各一アンプルの指示をお願いします。後で口頭指示受け持っていくので処方をお願いします」
電話を切ると、相沢は指示を出した。
「岡田さん、セレアキの準備。あと隔離室一号を空けておいて。外来カルテもあるはずだからお願い」
すべてが早すぎる。
まるで、最初からこうなることが分かっていたみたいだった。
相沢は朝倉さんに近づいた。
朝倉さんは、何かに取り憑かれたように呟いていた。
「さて、朝倉さん。私の声、聞こえてるよね」
しばらくして、朝倉さんの呟きが止まった。
「……はい」
か細い声だった。
「私との約束、覚えてるかな」
「……はい。分かってます」
「自分の言葉で言ってくれるかな」
「何か問題を起こしたら、病院を辞める」
「本当、辞めるねえ。でもこれって、辞めるどころの騒ぎじゃ済みそうにないよね」
相沢の声は静かだった。
静かな分だけ、残酷だった。
「下手すると、看護師が患者に暴力を振るったって世間に知れたら大騒ぎになるんじゃないかな。この意味、分かる?」
朝倉さんの表情が険しくなっていく。
「ご両親もさぞがっかりでしょうねえ。せっかく病気や怪我も治って、また娘の好きな看護師さんができるって思っていたのに」
「でも、どうしてかなあ」
相沢は続ける。
「なんで病気や怪我が、そう都合よく出てくるんだろうね。いつもそれで早退ばっかりされて」
朝倉さんは震え始めた。
「管理職泣かせだよね。スタッフ調整って結構面倒なんだよ。監査のこともあるしね」
相沢はさらに近づく。
「患者もよく私たちのことを月給泥棒って言ったりするけど、よっぽど月給泥棒してるよね」
「相沢さん」
私は止めに入ろうとした。
「岡田さん、一緒に先生のところへ連れて行きましょう」
そう言って朝倉さんの手を取ろうとした。
けれど、間に合わなかった。
朝倉さんは相沢に飛びかかり、押し倒した。
おかしい。
強い違和感が走った。
なぜ、あっさり倒された?
あんなに無防備な相沢を、私は初めて見た。
朝倉さんは馬乗りになり、相沢を殴った。
次の瞬間、スタッフ数名が朝倉さんを止めに入る。
まるで、殴られてから止めるように決められていたみたいに。
相沢は倒れたまま、朝倉さんの耳元で何かを囁いた。
「さっきの患者が言おうとしていたこと、想像できるんだよね」
相沢は微笑んだ。
「お荷物さん」
その瞬間、朝倉さんは叫んだ。
「うわああああっ! 馬鹿にするなあああっ!」
準備されていた注射が運ばれる。
「ダブルチェック」
「セレアキ混筋注、施行」
朝倉さんの叫び声が、少しずつ弱くなっていく。
「はい、鎮静。隔離室一号へ」
相沢は淡々と指示を出した。
「先生に連絡。隔離指示と同意書類。家族へ連絡」
そして、何事もなかったように、いつもの喫煙所へ向かった。
また、守れなかった。
あの時、もっと早く動けていたら。
もっと早く気づいていたら。
気がついたとき、私は相沢の背中を見ていた。
相沢は最初から、朝倉さんを隔離室へ入れるために計画していた。
それはなぜか。
看護師として非効率な存在を排除するためか。
それとも。
患者として扱った方が、管理しやすいと考えたからか。
こんなことが許されていいはずがない。
背筋に、冷たいものが走った。
「距離感を間違えると、人は簡単に壊れます。」




