第11話「選別」
朝倉の件以来、
病棟の空気は変わった。
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誰も、あのことに触れない。
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まるで、
最初から何もなかったかのように。
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詰所ではいつも通りの会話が続き、
笑い声も聞こえる。
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けれど、
どこか静かだった。
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必要なことしか話さない。
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余計なことは言わない。
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それが、
暗黙のルールになっていた。
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私は、その空気に耐えられなかった。
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何かがおかしい。
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でも、
誰もおかしいとは言わない。
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それが、
一番怖かった。
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数日後。
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詰所でインシデントの確認が行われた。
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朝倉の件ではない。
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別の患者の転倒だった。
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「今回の件なんだけど」
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相沢が口を開いた。
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「対応が遅れたのが原因だと思うんだよね」
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そのまま、
視線がこちらに向いた。
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「神谷さん、あのとき巡視してたよね?」
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「……はい」
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「異変に気づいたのはいつ?」
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「ナースコールが鳴ってからです」
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「その前に気づけなかった?」
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言葉に詰まる。
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「……気づけませんでした」
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「そうなんだ」
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相沢は小さく頷いた。
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「じゃあさ」
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「もしもう少し早く気づけてたら、転倒は防げたと思う?」
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詰所が静まり返る。
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全員がこちらを見ていた。
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——本当に、私だけの問題なのか。
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同じ時間帯に巡視していた人もいた。
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ナースコールに最初に気づいたのは、
私ではなかった。
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それでも——
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「……分かりません」
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「分からないか」
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相沢は少しだけ笑った。
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「私は防げたと思うよ」
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その一言で、
空気が固まった。
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「まあいいや」
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「今回のインシデント、神谷さんでまとめてもらっていい?」
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「……はい」
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「書き方は分かるよね?」
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「大丈夫です」
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「分からなかったら高橋さんに聞いて」
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高橋が小さく頷いた。
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視線を感じた。
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冷たい視線。
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相沢と同じだった。
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会議が終わったあと、
私は詰所に残った。
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インシデントを書きながら、
手が止まる。
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本当に、
私の責任なのか。
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分からなくなる。
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そのとき、
高橋が隣に来た。
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「書いてますか?」
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「……はい」
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「今回の件、難しいですよね」
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高橋は穏やかに言った。
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「でも、こういうのって」
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「誰かが責任を取らないと終わらないですから」
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「……そうですね」
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「神谷さんは真面目だから、ちゃんと書いてくれると思ってました」
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優しい言い方だった。
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けれど、
どこか引っかかる。
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その違和感の正体に、
私は気づいてしまった。
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これは、
同情じゃない。
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誘導だ。
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責任を、
私に集めるための。
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「……ありがとうございます」
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私はそれ以上何も言わなかった。
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書き終えたあと、
詰所を出た。
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廊下を歩きながら、
息が苦しくなる。
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逃げたい。
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ここから離れたい。
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そう思った。
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そのとき、
後ろから声がした。
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「神谷さん」
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振り返ると、
相沢が立っていた。
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「ちょっといい?」
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そのまま、
人気のない場所へ連れていかれた。
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「さっきの件なんだけど」
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「別に責めてるわけじゃないからね」
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「ただ」
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「現実はちゃんと見た方がいい」
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相沢は壁にもたれながら言った。
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「神谷さんさ」
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「優しいのはいいと思うよ」
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「でもね」
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「優しさだけじゃ、この仕事はできない」
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静かな声だった。
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静かな分だけ、
重かった。
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「守りたいならさ」
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「壊す側に回るしかないんだよ」
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頭が真っ白になる。
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「患者のために動くなら」
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「多少の犠牲は必要」
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「それが分からないなら」
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「この病棟には向いてない」
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相沢は真っ直ぐこちらを見た。
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「楽になるよ?」
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「こっちに来れば」
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その一言で、
何かが揺れた。
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もし、
相沢の言う通りにすれば。
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考えなくていい。
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苦しまなくていい。
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誰かを守れなかった後悔も、
感じなくて済む。
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一瞬、
その考えが頭をよぎった。
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——楽になる。
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その言葉が、
妙に現実的に感じられた。
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そのとき、
白石の言葉が浮かんだ。
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――誰かを助けたいなら、まず自分を守れ
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私は、
何を守りたいんだ。
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患者か。
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自分か。
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それとも——
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答えは、
まだ出なかった。
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「まあいいや」
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相沢は小さく笑った。
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「無理に今決めなくてもいい」
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「ちょうどいいタイミングがあるから」
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「そのときに、ちゃんと考えればいい」
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そう言って、
相沢は去っていった。
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残された私は、
その場から動けなかった。
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気づけば、
手が震えていた。
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もう、
後戻りはできない。
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ここから先は、
自分で選ぶしかない。
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白天使になるか。
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黒天使になるか。
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その境界は、
思っていたよりも近く、そして簡単に越えられるものだった。
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選ぶことは、ときに苦しくても避けられない。
神谷さんが、自分なりの答えを探し始めます。




