第30話 帰る場所と、破られた約定
目を覚ますと、見慣れた天井だった。
王都の屋敷の、自分の寝台だ。脇腹が、分厚く巻かれてる。両手にも、ぐるぐると包帯。身動きするたびに、傷が引きつって痛んだ。
決闘から、何日たったんだろうな。
「お目覚めですか」
枕元から、静かな声がした。
マリーだった。椅子に座って、俺の顔をのぞき込んでる。目の下に、うっすら隈ができてた。ずっと付いててくれたんだろうな。
「ああ。……心配かけたな」
起き上がろうとしたら、マリーが、俺の包帯を巻いた手を、そっと両手で包んだ。
指先が、少し震えてる。
「お帰りなさいませ」
それだけ言って、マリーは目を伏せた。
頬のことも、脇腹のことも、何も聞かない。無茶をしないでくれとも、言わない。ただ、俺の手を握って、帰ってきたことを確かめてる。
こういうところだよな、と思う。
「シンさま!」
廊下から、小さな足音が駆けてくる。ハルだ。寝台によじ登ろうとして、後ろからアーカムが真っ青な顔で飛んできた。
「ハル嬢! ご当主様のお怪我に障ります!」
「いいよ、アーカム。こっちおいで、ハル」
俺が手を広げると、ハルはよじ登ってきて、俺の胸のあたりにちょこんと座った。脇腹に当たらないように、マリーがそっと位置を直してくれる。
ハルは、俺の顔をじっと見た。それから、頬の新しい傷を、小さな指でそうっと触る。
「いたい?」
「もう痛くないよ」
笑ってみせると、ハルは安心したみたいに、俺の胸に顔をうずめた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
ハルの頭のてっぺんから、日向くさい匂いがする。マリーが、俺の手を握ったままでいる。アーカムが、扉のところで、ほっとした顔で立ってる。
戦いのことを、何も考えなくていい時間だった。久しぶりだな、こういうの。前世じゃ、こんな時間は一度も持てなかった。
♦
療養してる間に、アーカムが何度か報告を持ってきた。
決闘の噂は、もう王都中に広まってるらしい。しょぼい適性のはずの男爵が、国の切り札の勇者を、素手で干からびさせた。貴族たちは震え上がってるそうだ。
ただ、それだけじゃなかった。
「妙な動きが、出てまいりました」
アーカムが、手紙の束を差し出す。
「これまでヴォート家を遠巻きにしていた下位貴族の中から、こっそり誼を通じたいと申し出てくる家が、ぽつぽつと」
「俺は、勇者を干からびさせた狂犬だぞ。近づきたがる奴がいるのか」
「それが、だからこそ、のようでして」
アーカムは、少し声を落とした。
「勇者に勝てるほどの方を、下位貴族だからと軽んじる。そういう王家のやり方に、不満を持つ者は、少なくないようです。今まで口に出せなかっただけで」
「ふうん」
俺は、聞き流すふりをして、頭の隅に留めておいた。
同じ頃、ニールド侯爵からも手紙が届いた。短いやつだ。
『見事な余興だった。次も、楽しみにしている』
それだけ。相変わらず、味方なのか敵なのか、さっぱり読めない人だな。
♦
半月もすると、傷がだいぶふさがってきた。
脇腹は、まだ引きつるけど、動けないほどじゃない。手の傷も、剣を握るくらいは問題ない。
収納の中を、頭の中で確かめてみる。
奥のファイルに、アレキサンドルの首がある。真空パックで冷凍してあるから、腐ってない。一年以上前に取った首が、まだきれいなままだ。
伯爵は、この首をずっと取り返せずにいる。約定どおりなら、決闘に負けた以上、伯爵は隠居して、収益の三割を九十九年、うちに渡すことになる。
でも、素直に飲むとは思えないんだよな。
あの伯爵が、息子を殺され、勇者を殺され、そのうえ家の収益まで九十九年も削られて、黙って隠居するか? するわけがない。
「伯爵が動いたら、この首を突き返してやるか」
そう呟いた、その日の夕方だった。
領地のアーサーから、急ぎの早馬が来た。
手紙を開くと、几帳面なアーサーの字で、こう書いてあった。
ベルンハルト伯爵家が、約定を無視して兵を集めている。寄子の家々に招集をかけ、すでに相当の数が集まっている。隠居するどころか、伯爵本人が陣頭に立つつもりらしい。
伯爵領はヴォート領と飛び地で、間にいくつかの貴族領を挟んでいる。その領地を通る許可を、伯爵家はもう取り付けた。つまり、伯爵軍はじきに、ヴォート領へ向けて進発する――。
手紙を読み終えて、俺は窓の外を見た。
空には、重い雲が垂れこめてる。遠くで、また雷が鳴ってた。
「王城の名前で結んだ約定を、破りに来たか」
これは、ただのザマアじゃ済まないな。
伯爵家を、今度こそ、根こそぎ潰す。息子の首も、勇者も、収益も、全部取り返せないまま、家ごと消えてもらう。
そして、その破られた約定を、そっくり王城に突きつけてやる。約定を立ち会ったのは、ほかでもない王城だ。それを破った家を、王城がどう始末するのか。見ものだな。
頭の中で、これからやることが、かちかちと組み上がっていく。
「アーカム」
「は」
「領地に戻る。急ぎで支度を」
「……かしこまりました。護衛を手配いたします」
アーカムが出ていってから、俺はもう一つ、思い出した。
割譲させた、東の土地だ。あの硫黄の湧く谷。
「火薬の試作は、どこまで進んでたかな」
そういえば、鍛冶師に鉄を打たせてたのも、まだ途中だった。勇者戦のために作ったフレシェットの残りも、収納に山ほど入ってる。今度は、観客も味方もいない、ただの戦場だ。
遠慮は、いらない。
「シンさま」
振り返ると、マリーが心配そうな顔で、俺を見てた。手には、俺の外套を持ってる。
「すぐ終わらせて、帰ってくる」
俺は、マリーの頭に、ぽんと手を置いた。
「今度は、怪我もしないようにするよ」
マリーは、何か言いかけて、やめた。それから、小さく頷いて、外套を着せかけてくれる。
立ち上がると、脇腹が、まだ少しだけ痛んだ。
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