第24話 暗い光の勇者
雨の夜。王都の外れの貧民窟には、崩れかけた長屋がいくつも軒を連ねている。
その二階の一室で、ケインは床に座り込んでいた。
床には、二つの死体が転がっている。一つは、首があり得ない方向に曲がった男。もう一つは、アンジェだ。
ケインの手には、血のついたナイフが握られたままになっている。指が固まってしまって、離そうとしても離れないのだ。
軋む階段を、誰かが上がってきた。
扉が開いて、黒い外套の男が入ってくる。男は部屋の中を見回すが、二つの死体を見ても、顔色一つ変えない。
「ひどい有様だな。ここの始末は任せろ」
ケインは、ぼんやりと顔を上げる。
「……誰だ」
「ベルンハルト伯爵家の者だ。勇者殿、あんたをずっと探していた」
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三か月前の夜、ケインはレーヴェン子爵家の窓からアンジェを連れ出した。
王都の外れの安宿に何日か身を隠してから、貧民窟に近い長屋の一室を借りる。
窓が一つしかない狭い部屋でも、二人で暮らすには十分だと思えた。
ケインが見つけてきたのは、港の荷運びや石切り場の仕事だ。
勇者の加護を受けた体は、どれだけ重い荷を担いでも疲れを知らない。日雇いの男たちの三倍は働いて、三倍の金を稼いでいた。
「勇者様が荷運びとはなあ」
仲間たちにからかわれても、ケインは笑ってやり過ごす。アンジェと二人で暮らせるなら、それでいいと本気で思っていたのだ。
でも、アンジェは変われなかった。
切られた髪と額を隠すために、高い帽子を買う。香水を買う。
似合わないと言って安物の服を捨てては、また新しい服を買う。
ケインが一日かけて稼いだ金は、アンジェの買い物一つであっけなく消えていく。
ある晩、ケインはできるだけ穏やかに切り出してみた。
「アンジェ。もう少しだけ、お金の使い方を考えてくれないか。このままだと、家賃も……」
アンジェの顔が、みるみる歪んでいく。
「誰のせいで、こんな暮らしをしてると思ってるのよ!」
手にしていた櫛が、床に叩きつけられる。
「あなたが私を連れ出したんでしょう! 修道院に行っていれば、こんな汚い部屋で暮らさずに済んだのに!」
ケインには、何も言い返せない。修道院に行っていたら、殺されていたかもしれないのに。そう言いかけて、結局口をつぐむしかなかった。
翌日、仕事から戻ると、部屋は空っぽになっていた。帽子も、香水も、新しい服も、何一つ残っていない。
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アンジェがついていったのは、市場の外れで声をかけてきた男だった。
身なりがよくて、言葉が丁寧で、よく笑う男だ。
「お嬢さん、ずいぶん疲れてるみたいだね。うちで少し休んでいきなよ」
その優しい声を聞いて、アンジェは久しぶりに、自分が貴族の娘として扱われた気がしたのだ。
男の部屋で、甘い匂いのする何かを嗅がされる。頭がぼうっとして、体が自分のものじゃないみたいに重くなっていく。
気がついたときには、もう純潔を奪われていた。
そこから先のことは、アンジェ自身にもよく分からない。
男は、あの甘い匂いのする薬を毎日くれる。
それを吸えば、髪を切られたことも、額の傷も子爵家を追い出されたことも、何もかもがどうでもよくなる。
薬が切れれば、体中が震えて、頭が割れそうに痛む。
やがて男は、いつもの笑顔のまま言うようになる。
「薬が欲しいなら、自分で稼いでおいで」
いつしかアンジェは、薬代欲しさに、夜の路地に立つようになっていた。
♦
ケインは、仕事の合間を縫って王都中を探し回った。
酒場で聞き、市場で聞き、港で聞く。
栗色の髪を短く切った、気の強そうな娘を見なかったか。ひと月以上、それを毎日続けたのだ。
ようやく見つけたのは、貧民窟の奥の、湿った路地裏だった。
壁にもたれて、女が一人立っている。頬はこけて、目の下には黒い隈が浮いている。肩の出た安っぽい服を着て、目の焦点がまるで合っていない。
それでも、ケインにはすぐに分かった。
「アンジェ!」
駆け寄ったケインを見ても、アンジェは一瞬、誰なのか分からないという顔をしている。
ケインはその腕をつかんで、すぐ近くの長屋の部屋に連れていく。アンジェが寝泊まりしているらしい部屋だ。
散らかった床から、アンジェの荷物をかき集める。
「帰ろう、アンジェ。ここにいちゃだめだ」
そのとき、扉が開いた。
入ってきたのは、身なりのいい、よく笑う男だ。男はケインを見て、鼻で笑う。
「なんだ、昔の男か? 悪いが、こいつはもう俺の商売道具でね」
男は、壁にもたれてぼんやりしているアンジェを、顎でしゃくってみせる。
「前の女は首吊って死にやがったが、こいつはまだまだ稼げるんでな」
気づけば、ケインは男の胸ぐらをつかんでいた。
男が、懐からナイフを抜く。もみ合いになって、ケインは男を突き飛ばす。力加減なんて、考える余裕はどこにもなかった。
勇者の力で突き飛ばされた男は、壁に頭を打ちつけて、そのまま床に崩れ落ちる。
首が、あり得ない方向に曲がっていた。
ケインは、自分の両手を見つめるしかなかった。
殺すつもりなんて、なかったのに。ただ、アンジェを連れて帰りたかっただけなのに。
その背後で、アンジェが悲鳴を上げる。
でも、それは恐怖の悲鳴ではなかった。
「なんてことするのよ!」
振り向くと、アンジェが床に落ちた男のナイフを拾い上げている。
「薬をくれる人を、殺したわね!」
ナイフを振りかざして、アンジェが襲いかかってくる。目は血走って、口の端からは泡を吹いている。
ケインが知っていたアンジェは、もうどこにもいないのだ。
気が強くて、わがままで、それでも笑うとかわいかった幼なじみは、目の前のどこを探しても見つからない。
ケインは、ナイフを持ったアンジェの手首をつかむ。
それでもアンジェは、獣みたいに暴れる。ケインの腕に爪を立てて、噛みついてくる。
ケインの目から、涙があふれて止まらない。
アンジェの手から、ナイフを奪い取る。
「ごめん……ごめんな、アンジェ」
そして、ケインは自分の手で、アンジェを終わらせた。
男を殺してしまったのは、偶然だ。
でも、アンジェは違う。
ケインが生まれて初めて、自分の意思で殺した人間だった。
♦
黒い外套の男は、座り込んだケインの前にしゃがんで、その肩に手を置く。
「お前は悪くない」
ケインは、何も答えない。
男は、ゆっくりと言葉を重ねていく。
「あの娘をこんなふうにしたのは、誰だ? 子爵家から追い出されるように仕向けたのは、誰だ? 往来の真ん中で髪を切って、恥をかかせたのは、誰だ?」
ケインの唇が、小さく震える。
「……ヴォート」
「そうだ」
男は、ケインの耳元に口を寄せる。
「全部、ヴォートのせいだ」
窓の外では、雨が降り続いている。男は、その言葉を何度も、何度も繰り返していく。
♦
数日後、ケインはベルンハルト伯爵家の屋敷の門をくぐる。
出迎えたのは、跡継ぎになったばかりのクレメンスだ。
クレメンスは、にこにこしながら両手を広げる。
「ようこそ、勇者様。伯爵家は、あなたを心から歓迎しますよ」
ケインは、何も答えない。
その目には暗い光が宿っていて、もう勇者の面影はどこにも見当たらなかった。
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