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第24話 暗い光の勇者

 雨の夜。王都の外れの貧民窟には、崩れかけた長屋がいくつも軒を連ねている。


 その二階の一室で、ケインは床に座り込んでいた。


 床には、二つの死体が転がっている。一つは、首があり得ない方向に曲がった男。もう一つは、アンジェだ。


 ケインの手には、血のついたナイフが握られたままになっている。指が固まってしまって、離そうとしても離れないのだ。


 軋む階段を、誰かが上がってきた。


 扉が開いて、黒い外套の男が入ってくる。男は部屋の中を見回すが、二つの死体を見ても、顔色一つ変えない。


「ひどい有様だな。ここの始末は任せろ」


 ケインは、ぼんやりと顔を上げる。


「……誰だ」


「ベルンハルト伯爵家の者だ。勇者殿、あんたをずっと探していた」


 ♦


 三か月前の夜、ケインはレーヴェン子爵家の窓からアンジェを連れ出した。


 王都の外れの安宿に何日か身を隠してから、貧民窟に近い長屋の一室を借りる。

 窓が一つしかない狭い部屋でも、二人で暮らすには十分だと思えた。


 ケインが見つけてきたのは、港の荷運びや石切り場の仕事だ。


 勇者の加護を受けた体は、どれだけ重い荷を担いでも疲れを知らない。日雇いの男たちの三倍は働いて、三倍の金を稼いでいた。


「勇者様が荷運びとはなあ」


 仲間たちにからかわれても、ケインは笑ってやり過ごす。アンジェと二人で暮らせるなら、それでいいと本気で思っていたのだ。


 でも、アンジェは変われなかった。


 切られた髪と額を隠すために、高い帽子を買う。香水を買う。

 似合わないと言って安物の服を捨てては、また新しい服を買う。


 ケインが一日かけて稼いだ金は、アンジェの買い物一つであっけなく消えていく。


 ある晩、ケインはできるだけ穏やかに切り出してみた。


「アンジェ。もう少しだけ、お金の使い方を考えてくれないか。このままだと、家賃も……」


 アンジェの顔が、みるみる歪んでいく。


「誰のせいで、こんな暮らしをしてると思ってるのよ!」


 手にしていた櫛が、床に叩きつけられる。


「あなたが私を連れ出したんでしょう! 修道院に行っていれば、こんな汚い部屋で暮らさずに済んだのに!」


 ケインには、何も言い返せない。修道院に行っていたら、殺されていたかもしれないのに。そう言いかけて、結局口をつぐむしかなかった。


 翌日、仕事から戻ると、部屋は空っぽになっていた。帽子も、香水も、新しい服も、何一つ残っていない。


 ♦


 アンジェがついていったのは、市場の外れで声をかけてきた男だった。


 身なりがよくて、言葉が丁寧で、よく笑う男だ。


「お嬢さん、ずいぶん疲れてるみたいだね。うちで少し休んでいきなよ」


 その優しい声を聞いて、アンジェは久しぶりに、自分が貴族の娘として扱われた気がしたのだ。


 男の部屋で、甘い匂いのする何かを嗅がされる。頭がぼうっとして、体が自分のものじゃないみたいに重くなっていく。


 気がついたときには、もう純潔を奪われていた。


 そこから先のことは、アンジェ自身にもよく分からない。


 男は、あの甘い匂いのする薬を毎日くれる。

 それを吸えば、髪を切られたことも、額の傷も子爵家を追い出されたことも、何もかもがどうでもよくなる。

 薬が切れれば、体中が震えて、頭が割れそうに痛む。


 やがて男は、いつもの笑顔のまま言うようになる。


「薬が欲しいなら、自分で稼いでおいで」


 いつしかアンジェは、薬代欲しさに、夜の路地に立つようになっていた。


 ♦


 ケインは、仕事の合間を縫って王都中を探し回った。


 酒場で聞き、市場で聞き、港で聞く。


 栗色の髪を短く切った、気の強そうな娘を見なかったか。ひと月以上、それを毎日続けたのだ。


 ようやく見つけたのは、貧民窟の奥の、湿った路地裏だった。


 壁にもたれて、女が一人立っている。頬はこけて、目の下には黒い隈が浮いている。肩の出た安っぽい服を着て、目の焦点がまるで合っていない。


 それでも、ケインにはすぐに分かった。


「アンジェ!」


 駆け寄ったケインを見ても、アンジェは一瞬、誰なのか分からないという顔をしている。


 ケインはその腕をつかんで、すぐ近くの長屋の部屋に連れていく。アンジェが寝泊まりしているらしい部屋だ。

 散らかった床から、アンジェの荷物をかき集める。


「帰ろう、アンジェ。ここにいちゃだめだ」


 そのとき、扉が開いた。


 入ってきたのは、身なりのいい、よく笑う男だ。男はケインを見て、鼻で笑う。


「なんだ、昔の男か? 悪いが、こいつはもう俺の商売道具でね」


 男は、壁にもたれてぼんやりしているアンジェを、顎でしゃくってみせる。


「前の女は首吊って死にやがったが、こいつはまだまだ稼げるんでな」


 気づけば、ケインは男の胸ぐらをつかんでいた。


 男が、懐からナイフを抜く。もみ合いになって、ケインは男を突き飛ばす。力加減なんて、考える余裕はどこにもなかった。


 勇者の力で突き飛ばされた男は、壁に頭を打ちつけて、そのまま床に崩れ落ちる。


 首が、あり得ない方向に曲がっていた。


 ケインは、自分の両手を見つめるしかなかった。


 殺すつもりなんて、なかったのに。ただ、アンジェを連れて帰りたかっただけなのに。


 その背後で、アンジェが悲鳴を上げる。


 でも、それは恐怖の悲鳴ではなかった。


「なんてことするのよ!」


 振り向くと、アンジェが床に落ちた男のナイフを拾い上げている。


「薬をくれる人を、殺したわね!」


 ナイフを振りかざして、アンジェが襲いかかってくる。目は血走って、口の端からは泡を吹いている。


 ケインが知っていたアンジェは、もうどこにもいないのだ。


 気が強くて、わがままで、それでも笑うとかわいかった幼なじみは、目の前のどこを探しても見つからない。


 ケインは、ナイフを持ったアンジェの手首をつかむ。


 それでもアンジェは、獣みたいに暴れる。ケインの腕に爪を立てて、噛みついてくる。


 ケインの目から、涙があふれて止まらない。


 アンジェの手から、ナイフを奪い取る。


「ごめん……ごめんな、アンジェ」


 そして、ケインは自分の手で、アンジェを終わらせた。


 男を殺してしまったのは、偶然だ。


 でも、アンジェは違う。


 ケインが生まれて初めて、自分の意思で殺した人間だった。


 ♦


 黒い外套の男は、座り込んだケインの前にしゃがんで、その肩に手を置く。


「お前は悪くない」


 ケインは、何も答えない。


 男は、ゆっくりと言葉を重ねていく。


「あの娘をこんなふうにしたのは、誰だ? 子爵家から追い出されるように仕向けたのは、誰だ? 往来の真ん中で髪を切って、恥をかかせたのは、誰だ?」


 ケインの唇が、小さく震える。


「……ヴォート」


「そうだ」


 男は、ケインの耳元に口を寄せる。


「全部、ヴォートのせいだ」


 窓の外では、雨が降り続いている。男は、その言葉を何度も、何度も繰り返していく。


 ♦


 数日後、ケインはベルンハルト伯爵家の屋敷の門をくぐる。


 出迎えたのは、跡継ぎになったばかりのクレメンスだ。

 クレメンスは、にこにこしながら両手を広げる。


「ようこそ、勇者様。伯爵家は、あなたを心から歓迎しますよ」


 ケインは、何も答えない。


 その目には暗い光が宿っていて、もう勇者の面影はどこにも見当たらなかった。

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