第2話 土の味はいかが?
それから半月ほど、俺は寝たきりのふりをして過ごした。
心が壊れるほどの傷を負った人間が、そうそう元気に歩き回れるはずがないしな。
そんな不自然を見せれば、誰かが気づくかもしれない。
俺は天井を眺め、返事を濁して寝たきりを装っていた。
そして、その間は布団の中で魔法の練習を続けている。
射程十メートル。座標指定。出す、戻す。
小さな石ころを枕元に出して、戻す。
紙一枚ほどの水を空中に出して、戻す。
繰り返すうちに、感覚が体に馴染んでいった。
目で見えない場所でも、頭の中で想像できれば、そこに出せる。
たとえば、誰かの胸の中にも。
その誰かは、毎朝、俺の部屋に来てるんだよな。
「シン様、おはようございます。今日もお加減が優れませんね」
ネイルだ。眉を下げ、泣き出しそうな顔で濡れた布を絞る。
「おいたわしい」「私がついておりますからね」
原作の通りの、優しい声で「シン」なんて愛称で呼ぶ。
でもな、聞いてるんだよ、お前のあの独り言を。
笑いが出そうだが、俺は目を閉じて「弱い人間」の顔を作る。
半月かけて分かったことがある。
この屋敷の人間は、誰一人として俺の部屋に来ない。
父も、母も、弟も。
ネイルと掃除婦と、たまに来る医者だけだ。
この家の人間は、もう俺を、いない物として扱い終えていた。
医者が「だいぶ良くなりましたね」と帰っていった日の午後、俺は寝台から身を起こした。体は、とっくに動くようになっていた。
その日、部屋にはネイルと、掃除婦がいた。
ネイルは窓辺で花瓶の水を替えている。掃除婦は床の隅を拭いている。俺は寝台に座ったまま、ぼんやりと窓の外を見るふりをしていた。
そして、ネイルの心臓に、土を出す。
ほんの少しだ。指先ほどの、小さな土の粒。
「っ……!」
ネイルが、花瓶を取り落とした。
陶器の割れる音。胸を押さえて、よろめく。
顔が見る間に白くなって、膝から崩れた。
「ひっ、ネイルさん!?」
掃除婦が悲鳴を上げて駆け寄ろうとする。
俺は寝台から飛び降りて、ネイルのそばに膝をついた。
「ネイル! ネイル、しっかり!」
我ながら、いい声が出た。
「誰か呼んできて! 早く!」
掃除婦は青い顔で何度か頷くと、スカートをたくし上げて廊下へ走っていった。足音が、遠ざかる。
扉が閉まった。部屋には、俺とネイルだけが残った。
「シ、ン、さま……」
ネイルが、震える手で俺の袖を掴む。
苦しくて、助けを求めるように俺に縋りついてくる。
俺は彼女の上半身を抱き起こして、背中を支えた。
傍から見れば、倒れた使用人を必死に介抱する、心優しい主人の姿だろう。
俺はその耳元に、唇を寄せた。
「クレメンスに股を開いた売女は死ねばいい」
笑いを含んだ声で、囁いた。
ネイルの目が、大きく見開かれた。
痛みを忘れたみたいに、愕然とした顔で俺を見る。
何を言われたのか、一拍遅れて理解したのだろう。
唇が、わなわなと震えた。
「き、聞いて……」
「聞いてたよ、あの日。全部」
俺は微笑んだまま、彼女の心臓に、土を少しずつ足していく。
ひとつまみ。もうひとつまみ。
苦しみが、一段ずつ深くなっていくのが分かる。
「わかるか? 今お前の心臓に、俺が土を入れている」
ネイルの喉から、ひゅう、と細い音が漏れた。
爪が、俺の袖に食い込む。
目が助けを探して宙を泳ぎ、俺の顔に戻ってくる。
そこには、何もない。同情も迷いも、推しへの未練さえも。
「原作じゃ、お前、最後まで寄り添ってくれるんだよ。ありがとな。だから殺さないでおく。今はな」
返事は、なかった。
ネイルの手から、力が抜けた。
苦悶に歪んだ顔のまま、瞳から光が消えかける。
俺はしばらく、その顔を黙って見ていた。
それから、心臓の土を全部『消した』。
全てが元通りだ。
彼女は、さっきまでの苦悶の顔が嘘のように、呆然としている。
彼女の耳元で囁く。
「今日はツイてるなあ……、明日はどうなんだろうな?」
ネイルの顔が恐怖に覆われて震えだし、失禁する。
ほぼ同時に、廊下から慌ただしい足音が戻ってきた。
「こちらです!」
掃除婦が連れてきたのは、家令のアーサーだった。
部屋に飛び込んできたアーサーが、意識を取り戻したネイルと、その傍らにいる俺を見て足を止める。
俺はアーサーに無力なシンクレアを演じる。
「ネイルが、急に、胸を押さえて……僕、何もできなくて……」
声を詰まらせると、アーサーの手が、俺の肩に置かれた。
「シンクレア様……後は医者に任せましょう」
駆けつけた医者は、若い人にも偶に起こる心臓の病だといった。
暫く仕事は休ませて様子を見ましょうと。
まあ俺がやった証拠は何一つない。
俺はネイルに近づいて、手を握って耳元でこう言った。
「無能のシンが魔法で心臓に!なんて、誰に言うのかな?」
ネイルは逃げるように屋敷をやめた。
人が一人辞めた所で、屋敷はいつも通りの日常に戻る。
使用人たちは声を潜めて噂をして、すぐに話題は移る。
ネイルは、その程度の存在だったのだ。誰かの人生の脇役に収まって、安泰を狙っていた女らしい終わりだろう。
最後の日にネイルが屋敷が去る姿をみても、何も感じなかった。
悲しみも、後悔も、胸のどこを探しても見つからない。
前世で死んだときですら、もう少し何かが残っていた気がする。そのことが、少しだけ可笑しかった。
ネイルが去った夜、俺は久しぶりに、家族と夕食の席についた。
長いテーブルの上座に、父。
その隣に、勝ち誇った顔のクレメンス。
向かいに、冷たい目で俺を見る母。
誰も、「体は大丈夫か」とは聞かない。俺が席につくと、場の空気が少し濁った。
食器の音だけが、しばらく続いた。
やがて、父がナイフを置く。
「今日はお前に話がある」
「なんでしょうか」
俺はそう言うと、父という事になってる男の脳内に、一握の土を出し、見つめた。
「お前の嫡男のとどけについついついつい・・・」
言葉が、壊れた。
同じ音を繰り返して、舌がもつれる。父の右の口の端が、ずるりと下がる。手からフォークが落ちて、高い音を立てる。
「貴方!」
「父上!」
母とクレメンスが、同時に叫んで立ち上がった。
椅子が倒れる。父の体が、ゆっくりと横に傾いていく。
俺は、静かにナイフを置いた。
「おや、これはいけない。アーサー! 医者を!」
扉の外に控えていたアーサーが、血相を変えて走り出す。
クレメンスは、父に取りすがって何かを叫んでいる。
母は顔を覆って、その場に座り込んだ。
倒れる直前の父の言葉が、頭の中で繰り返された。嫡男の届け。
つまり、俺を嫡男から外す届けは、まだ出されていなかった。
王国法では、当主が倒れて意思を示せなくなったとき、届け出が済んでいない嫡男が当主代理を務める。
その日、俺は、王国法により当主代理となった。
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